[Fightドキュメンタリー劇場62]没後15年「剛竜馬のものがたり」WWF Jr.ヘビー藤波辰巳vs. 剛竜馬

[週刊ファイト10月24日]期間 [ファイトクラブ]公開中

[Fightドキュメンタリー劇場62] I編集長の喫茶店トーク
▼没後15年「剛竜馬のものがたり」WWF Jr.ヘビー藤波辰巳vs. 剛竜馬 
 by Favorite Cafe 管理人
・剛竜馬命日2009年10月18日から15年、剛プロレス全盛期を振り返る
・2連戦初戦運命の大阪府立控え室、余裕王者藤波と新兵器に自信の剛
・原爆固め決まらず! 学プロ誕生に決定的影響を与えた伝説の試合展開
・剛竜馬ジャーマンKO予告、肉体改造の背景にアントニオ猪木の影
・ハッキリ言って剛をナメていた、あれがリング中央だったら
・剛タイトル奪取も不運ベルトが無い、異変気遣うI編集長
・I編集長との男の約束「必ずビッグになる」家族想う剛竜馬
・「それぞれの選手、それぞれの物語、ベルトには人間の血が通う」I編集長


 10月18日は、剛竜馬の命日である(2009年没)。
 国際プロレスの期待の新人として入団した八木宏。後の剛竜馬だ。1970年代後半には、より注目を集める戦いの場を求めて新日本プロレスへ移籍。ジュニアヘビー級チャンピオン藤波辰巳の好敵手として活躍した。その頃が剛竜馬のプロレスキャリアとしての全盛期だったかもしれない。
 その後、旧UWF➡全日本プロレス➡インディー団体・・・・・と時代の波に流されていった。1990年代には「プロレスバカ」のキャラクターで再ブレイク。しかし2000年代に入ると自らが引き起こしたトラブルの数々で、転落の道へ。

 今回のI編集長喫茶店トークは、剛竜馬のプロレスバカ時代にCSサムライチャンネルで放送された「剛竜馬のものがたり」である。

■ 闘いのワンダーランド #050(1997.2.12放送)/#071(1997.3.13放送)
「I編集長の喫茶店トーク」より
1979.10.02 大阪府立体育館/1979.10.04 蔵前国技館
 WWFジュニアヘビー級選手権試合
 藤波辰巳 vs. 剛竜馬

 1979年、国際プロレスの若きエースが藤波のWWFジュニアヘビー級に挑戦。剛竜馬は短期間で藤波辰巳のライバルになるほどの急成長を見せていた。そして3回目の挑戦で遂に藤波に勝利。WWF Jr.ヘビー級戦で藤波に土をつけてベルトを奪った最初のレスラーだ。剛は寒風吹きすさぶ新宿の路上でI編集長に語った約束を忘れていなかった。

2連戦初戦運命の大阪府立控え室、余裕王者藤波と新兵器に自信の剛

 I編集長・井上義啓)これはWWFジュニアヘビー級の名勝負を展開した藤波と剛の一戦ですね。藤波はジュニアヘビー級チャンピオン時代に数多くの名勝負を残しています。寝屋川でのチャボ・ゲレロとの大流血なんかがすぐに頭に浮かんできますね。そして、藤波と剛竜馬との一連の闘いも全部が名勝負でした。

伝説の寝屋川決戦!(1978年10月20日)

▼1978伝説の藤波チャボ戦発掘奇跡

[ファイトクラブ]故ストロング小林写真探してたら…1978伝説の藤波チャボ戦発掘奇跡

 I編集長・井上義啓)1979年(昭和54年)10月2日大阪府立体育会館で行われました藤波と剛の試合、WWFジュニアヘビー級戦です。この試合は剛が勝って新チャンピオンになるんですが、2日後10月4日に蔵前でリターンマッチが行われたんですよ。その試合では藤波が勝ってタイトルを奪い返すという結果になりました。だから大阪と蔵前の2つの試合についてペアでお話ししようと思います。

 まず大阪では、16分53秒、逆さ押さえ込みで剛が勝ちました。試合後にはカウント2だ、3だと揉めはしましたけどね。そして次の蔵前では、14分13秒、回転足折固めで藤波が勝ちました。

2連戦の結果を報じる週刊ファイト(1979年10月16日付け)

原爆固め決まらず! 学プロ誕生に決定的影響を与えた伝説の試合展開
photo by 猪俣謙次 DWA(同志社プロレス同盟発行Wrestling Digestより)

 藤波辰巳と剛竜馬による1979年10月2日、大阪府立体育会館の試合は、のちに全国に広がることになる学生プロレスの誕生期における、もっとも影響を与えたマッチメイクであった。
 藤波のジャーマンが完璧に決まったかに思われたが、剛の足がロープにかかり3カウントにならず。ここまでを、記憶だけを頼りに完コピしたのがDWA(同志社プロレス同盟)である。ロックバンドもレコードの時代に、耳だけを頼りに人気曲をコピーしたように、VHSすら普及してない時代に、記憶だけを頼りにすべてのspotを暗唱した。

 そのジャーマンのあとのフィニッシュに至るhi-spotシークエンスは、オリジナル展開である。当時の社会人プロレス最大組織だったJWAの、あくまで下部組織の扱いだったDWAが、ダブルタイトル戦において引き分けるという驚きの結末を提示。一気に、あたかも対等の団体であるかのような、大衆感情操作のイリュージョンを演出して魅せた。ここに世界で最初の学生プロレス団体が始動したのであった。

▼藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』

藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』

 I編集長)剛は過去2回、藤波に挑戦して負けています。だから3回目の対戦となる大阪では、藤波は自信満々だったんですよ。藤波は、このベルトをこれまでに25回も連続防衛しているわけですから、我々マスコミも相手の剛がいくら強いと言っても、まあタイトルが移動することはないだろうと思っていました。

 1979年には、剛はロサンゼルスで武者修行をしておって、日本で藤波戦が決まったことで急遽帰国したんです。ロサンゼルスにはリトルトーキョーという街もあって、日本人や日系人も多いし、日本の会社なんかも沢山あって社員もおりますから、日本人プロレスラーの剛の人気は高かったんです。ブラック・ゴールドマンと組んでアメリカス・タッグなんかも保持していました。既にチャンピオンだったわけですね。そんなふうにロサンゼルスじゃあ人気沸騰でしたよ。

ロスに剛竜馬後援会が発足(週刊ファイト1979年10月9日付け)

 I編集長)そういうこともあって、ロスで藤井ミノルさんというファンが中心になって剛の後援会も作ったほどです。30人か40人が集まって発足式をやりましてね、剛にガウンを贈呈したんです。その時に剛が「マスコミもいるので、ここでは言えないが、藤波を攻略する二つの新兵器を開発した」と発言したんですね。むろん週刊ファイトの特派員もそこにいましたからね。そんな形で、ファンの後押しもあり、剛の方も自信満々で帰国したわけです。

 当時、藤波はジュニアヘビー級の枠にとらわれずに錚々たるヘビー級の連中と闘っておったんです。だからもう、準メインエベンターまでのし上がってきていたんですね。ジュニア時代の藤波の絶頂期ですよ。相手の剛がどんなに絶好調でも、そんな藤波が負けるなんてことは考えられなかったんですね。

 I編集長)2連戦の最初の試合は大阪だから私も会場に行って藤波と話をしたんです。勝ち負けのこととかの話は全くしなかったですね。それよりも今日の試合が終わったら、NWAジュニアヘビー級についてインタビューしたいと頼んでいたくらいですよ。と言いますのは、当時マスコミやファンの間では、NWA世界ジュニアヘビー級に藤波が挑戦する話でもちきりだったんですね。これはダニー・ホッジとか、ヒロ・マツダが巻いた世界的に権威のあるタイトルです。

 そのタイトルに藤波が挑戦するという話ですよ。この時のNWA世界ジュニアヘビー級チャンピオンはスティーブ・カーンでした。だから、剛との試合が終わった後、その話を聞かせて欲しいと頼んでいたわけですよ。もちろん猪木も藤波が負けるなんて思っていないから、のんびりしたもんでした。坂口、星野、長州あたりと雑談をしてましたね。

 ただ試合前に藤波は「ここだけの話ですけど、いま体調が悪いんです。しかし初めての相手じゃなくて二度も防衛した相手ですから、慎重に闘えば大丈夫です」と言っていました。私もその言葉がちょっと引っかかりはしたんですが、まあ体調のこととか、レスラーの話ではしょっちゅう出てきますから聞き流してしまったんですよ。

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