[ファイトクラブ]深紫の聖戦made in Japanイアン・ギラン-チャボ・ゲレロDarker than Red

 本誌3月30日号収録の『岸田キーウ習近平モスクワこれはビックリ箱?WBC優勝マット界と音楽』にて、Deep Purple来日公演も取り上げ反響も多数いただいたが、大島慶山はやっぱり丸善インテックアリーナ公演に行っていた。そこから話は1978年10月20日のイアン・ギラン・バンドと新日本プロレス寝屋川大会の同日開催以下、奇遇なマニア話に突入していく。


[週刊ファイト4月6日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼深紫の聖戦made in Japanイアン・ギラン-チャボ・ゲレロDarker than Red
 by 大島慶山 w/編集部編
・FC名More Black than Purpleと日本の懲りない卒業しないマニアたち
・1978年10・20「藤波辰巳vs.チャボ・ゲレロ」寝屋川対ギラン厚生年金
・ロッド・エバンス偽DPメキシコ公演~4・1RIZIN41春の嵐が吹き荒れる
・WBC侍ニッポンとメキシコ戦 白銀のマスクマン「大谷誰?」スポーツ紙


 友人から「ポール・マッカートニーが今年 来日するかも!?」とLINEが届いた。偶然、BEATLESの音源を聴いていた時だった。”HELP!”とポールが歌いだす前に「007」のイントロを冒頭に付け足したバージョンだ。まだ、正式発表ではなく噂らしい。
 彼の来日公演は、東京・名古屋・大阪の各地で、来日の度に何度か生で観てるので、「今回もぜひみたい」とLINEを返信してから、映画『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997)をDVD観賞した。
 この頃のミシェル・ヨーは若くて、綺麗でセクシィだ。アカデミー賞とか、ゴールデングローブ賞に輝いているのは素晴らしいかぎりだ。


編集部注:英語選択アリのDVD特典なら『グリーン・デスティニー Crouching Tiger, Hidden Dragon』(2000)、ミシェル・ヨーのインタビューを映画『エブエブ』のあとにまた見直すと笑える。「15年~20年後にはアクション辞めてドラマに」と言ってるんだが・・・。

 「007」 は欠かさず、劇場の大画面でも、字幕版と吹き替え版の2種類観賞するのだが、DVDで見直しても飽きない。特典映像も充実している。

「007」のジェームス・ボンド役は、筆者個人としては、
①ショーン・コネリー
②ピアース・ブロスナン
※煙草のcm「LARK」に起用されてる時から、彼が、キャスティングされたらいいなと思ってた。
③ロジャー・ムーア
④以下 省略

 最近のは一話完結じゃなく続き物になってるし、話が暗い。コミカルな要素もないから微妙かも。25作目『ノー・タイム・トゥ・ダイ』がダニエル・クレイグの最後だったので、新しいジェームス・ボンド役は女性とか、黒人俳優とか諸説入り乱れてるが真説はどうなのだろう。新作が楽しみでもある。

 そんな大英帝国が誇る人気ハードロックバンドDEEP PURPLEのライブに行ってきた。メンバーも自国イギリスのWBCでの活躍を期待していたらしいが、英国は3月16日(木)から始まる日本ツアー前日のメキシコ戦で破れ、1勝3敗で残念ながら予選敗退となった。

FC名More Black than Purpleと日本の懲りない卒業しないマニアたち

 第2期ディープ・パープルのラストライブが開催されたのは、1973年6月29日の大阪厚生年金会館大ホールである。イアン・ギランが”THE END. GOOD-BYE”とフェアウェルスピーチをしてマイクを置き、ベースのロジャー・グローバーと共にステージを降りた。今から約半世紀前だ。

 ボーカルのイアン・ギランとギターのリッチー・ブラックモアとは幾多の軋轢が囁かれ、互いにグループを出たり入ったり、呼んだり、追い出したりとあらゆる権謀術数を用い主導権争いをしたりと、限りなき戦いの最中かなと思われたが・・・。今は、2人の仲は改善されていると、2人ともインタビューでは発言している。
 でも、世界中の観客や音楽マスコミが望む第二期のリユニオンが、模索される可能性は残念ながら限りなく低い。ジョン・ロード追悼ライブや、ロックの殿堂入り式典でのライブという千載一遇の機会でも実現の機会を失している。
1夜限りで♪スモーク・オン・ザウォーターの1番をイアン・ギランが歌い、2番をグレン・ヒューズが歌い、3番をデイヴィッド・カヴァデールが歌い、リッチー・ブラックモアがギターを弾くというような夢のセッションは・・・各自の妄想でしかないのだ。

 水と油のギランとブラックモアだが、長い歴史の中では、イアン・ギラン・バンドにリッチー・ブラックモアが飛び入りしたり、レインボーのボーカルにリッチーが、ギランを勧誘したりした、まさかの話もあった。

1978年10・20「藤波辰巳vs.チャボ・ゲレロ」寝屋川対ギラン厚生年金

 名盤『ライブ・イン・ジャパン』(欧米発売名メイド・イン・ジャパン)は、筆者のモスト・フェバレット ライブアルバムだ。レッド・ツェッぺリンと共に甲乙つけがたく心酔したバンドだ。
 ツェッペリンのジミー・ペイジは、来日の度に西新宿で、ツェッペリンの海賊盤をよく入手しにきているらしいが、残念ながら遭遇したことはない。
 イアン・ギランには1977年と1978年の2回、出会えている。今と違いセキュリティも関係者も、常に同行しているわけではなく、比較的楽に彼らと会うことが出来た。ネット情報やSNSなどもなく、彼らが、立ち廻りそうな場所にヤマをかけたり、宿泊するであろうホテルを探して会いに行った。来日の際に会うことが出来た。1977年の時にコンサート・パンフレットや、Tシャツにサインを貰ったのだが、翌年は、
『イン・ロック』
『マシーン・ヘッド』
『ライブ・イン・ジャパン』
 のアナログレコードのジャケットに直筆サインを貰った。門外不出のお宝だ。

 1977年の来日時は、大阪の肥後橋にあるグランドホテルで、イアン・ギランやレイ・フェンウィック含むイアン・ギラン・バンド全員のサインをゲットした。
 1978年は当時、大阪の福島にあったプラザホテルでギラン(イアン・ギラン・バンドから改名)のバンド全員から貰えたのには嬉嬉とした。


▼チャボ追悼!回顧・伝説の寝屋川決戦!~昭和53年10月20日

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▼故ストロング小林写真探してたら…1978伝説の藤波チャボ戦発掘奇跡

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 ギランのライブは、1978年10月20日に大阪厚生年金会館大ホールで開催され、なんと同日の同時刻には、同じ大阪府下の寝屋川市民体育館で、新日本プロレスの興行が開催された。
 その時のメインイベントが、
 「藤波辰巳 対 チャボ・ゲレロ(シニア)」のWWWF(現WWE)の世界ジュニアヘビー級タイトルマッチだ。
 場外のチャボに、藤波がドラゴンロケットを敢行し、寸前でかわされ大流血に見舞われながら、逆転勝利をおさめた日本マットに残るジュニアの歴史的な試合だ。

 ロックのライブと、プロレスの日程が重なることぐらいでは、特筆されることではないが、なんとイアン・ギラン率いるギランのバンド全員と、新日本プロレスに来日していた外人勢が、同じ宿舎で、呉越同舟の遭遇をしている。
 プロレス好きでロックマニアの少年だった私は、一挙両得な奇跡の瞬間に出くわし舞い上がった。新日本プロレス側の外人選手はチャボ・ゲレロ、クリス・マルコフ、トニー・ロコの3人だ。右往左往しながらレスラーやミュージシャンの間を行ったり来たりしながら、彼らと英語の堪能な友人を交え、至福の時だった…。
 当初はレスラー陣もバンド側も、互いの事は知らないみたいだったが、私と友人が両陣営に説明したので、 ほんの数分間だろうか、イアン・ギランとチャボ・ゲレロたちが歓談していた。その時の写真がないのが、重ね重ね残念だ。
 ギラン・バンドのドラマーが空手をしてると話したら、チャボ・ゲレロが「11年経ったら君の挑戦を受けるよ」とジョークを返した。ギラン含むバンド全員と、ロコとマルコフも大笑いしていたことを、昨日の事のように思いだす。ギランは覚えているかな?(なぜに11年かは不明)」。

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