[ファイトクラブ]なぜ日本人はこんなにプロレスが好きなのか?

[週刊ファイト12月1日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼なぜ日本人はこんなにプロレスが好きなのか?
 by 安威川敏樹
・『列伝』と並ぶプロレス漫画の金字塔『プロレス・スターウォーズ』
・時代背景が、日本のプロレスを独特なスタイルにした
・東洋とは全く違う、アメリカでのプロ・スポーツ事情
・日本人の、プロレスをクソ真面目に見る文化


 先月、アントニオ猪木さんが亡くなったのは記憶に新しいところだ。この訃報は大ニュース扱いとなり、各局のワイドショーでも取り上げられた。
 プロレスが地上波テレビ定期放送のゴールデン・タイムから撤退したのは昭和の終わりで、あれから30年以上も経つ。黄金時代と比べると、今や日本のプロレス界は風前の灯といった感があるにもかかわらず、プロレスラーの死は日本人のほとんどが知ることとなった。

 本誌ライターのタダシ☆タナカ氏は、今や日本のプロレス市場規模はアメリカの千分の一と語る。しかし、それでも日本にプロレスが生き残っているのは、元々日本人はプロレスが大好きな国民だからではないか。なぜ日本人はプロレスが好きなのか、その不思議な現象を検証したい(以下、本文中は敬称略)。

▼プロレス界の混迷を招いた日本プロレス~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]プロレス界の混迷を招いた日本プロレス~マット界をダメにした奴ら

『列伝』と並ぶプロレス漫画の金字塔『プロレス・スターウォーズ』

 1980年代の中頃に連載されていた『プロレス・スターウォーズ』という漫画がある。原作は原康史、即ち東京スポーツの桜井康雄だが、実際には作画担当のみのもけんじがストーリーを考えていたという。
 登場人物は実在のプロレスラーおよび関係者ばかりとはいえ、筆者が大好きなプロレス漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)と違い、こちらは完全なフィクション(もっとも『列伝』だって8割ぐらいはフィクションだが)。そのため『スターウォーズ』は『アストロ球団』(原作:遠崎史朗、作画:中島徳博)に引けを取らないぐらい荒唐無稽な漫画だった。

 時代背景は198X年。つまり特定されていないが、ジャイアント馬場やアントニオ猪木が健在で、ジャンボ鶴田、藤波辰巳、長州力、天龍源一郎の『鶴藤長天』がニューリーダーとして君臨、前田明や藤原喜明のUWF勢も絡んでいるので、1984~7年頃という設定だろう。

 物語では、馬場と猪木がガッチリ手を組んで(漫画では馬場と猪木はメチャメチャ仲が良い)、全日本プロレスと新日本プロレスが合同興行を行い、プロレス人気は空前の絶頂期を迎えていた。
 何しろ、日本テレビとテレビ朝日が猪木vs.鶴田を同時中継し、それぞれ視聴率40%超え(要するに、日本国民の8割以上がこの一戦を見ていたことになる)を記録していたのだから。

 しかし、アメリカではショー化され過ぎたプロレスがファンからソッポを向かれ、プロレス会場には閑古鳥が鳴いていた。そこでアメリカのプロモーターたちは、黄金のテリトリーである日本マットに目を付け、日本のプロレスを乗っ取ろうとしたのである。
 日本に乗り込んだアメリカン・プロレスは、完成しつつあった東京ドームを買収し、野球場からプロレス専用会場に造り変え、13万人の大観衆を集めて、NHKを除く全ての民放各局が日米対抗戦を同時生中継した(NHKを除く、というところに妙なリアリティ)。

 ……こうしてストーリーを書き写すだけで、ワクワクするというより虚しくなってくる(笑)。東京ドームが完成間近ということは1987年ぐらいだが、要するに現実の世界ではプロレスの視聴率が1ケタ台に低迷していた時期であり、テレ朝の『ワールドプロレスリング』および日テレの『全日本プロレス中継』は翌1988年4月にゴールデン・タイムから撤退した。
 ちなみに、漫画の中で東京ドームに集まったファンの平均年齢はなんと10.5歳(生放送中に古舘伊知郎アナがそう実況していたが、誰がいつ、どうやって調べたのだろう?)。要するにチビッ子ばかりだったのだ。しかもチビッ子たちは保護者なしで全国から集まっており、子供がなぜ高いチケット代や旅費を持っていたのか? 漫画の中では、バイトして貯金したと説明されているが、終戦直後じゃあるまいし、小学生にそうそう働き口があるわけもなかろう。
 それに会場はチビッ子だけということは、大人のプロレス・ファンはいなくなったのだろうか?

 それはともかく、『スターウォーズ』で強調されていたのは、日本人ほどプロレスが大好きな国民はいない、ということだった。しかも、プロレス人気は子供が支えているのだから、日本のプロレスは未来永劫、安泰というわけである。

▼漫画の中で観客はチビッ子ばかりだったが、唯一の大人としてみのもけんじの姿もあった

時代背景が、日本のプロレスを独特なスタイルにした

 1954年2月19日、東京・蔵前国技館で行われた力道山&木村政彦vs.シャープ兄弟(ベン&マイク)のタッグ・マッチが、日本におけるプロレスの事実上の夜明けとなった。日本で始まったばかりのテレビ放送にプロレスが映し出され、全国にプロレス・ブームが巻き起こったのだ。
 以来、日本人は『プロレス』という名の熱病に罹患するようになる。前項で紹介した『スターウォーズ』はかなり極端だが、20世紀に少年時代を過ごした男の子は、似たような経験をしているだろう。プロレスは少年にとって、はしかのような存在だった。

 本場アメリカでのプロレスの基本は、よく知られているようにベビーフェイス(善玉)vs.ヒール(悪役)。この時代劇のような判りやすい勧善懲悪が、日本人にも受けた。
 それでも、日本人のプロレスの捉え方は、アメリカ人とは違う。アメリカでは、正義の地元レスラー(あるいは白人レスラー)が、悪のよそ者レスラー(あるいは有色人レスラー)をやっつけるというパターンだ。
 日本では、正義の日本人レスラーが悪の外国人レスラーと闘う、という図式に置き換えられた。それ自体はベビーフェイスvs.ヒールという構図に変わりはないのだが、当時の日本人は敗戦コンプレックスを抱えていたのである。

 戦前は、日本は世界一強い国(有史以来、日本は対外戦争で負けたことがない。元寇のときでも日本は『神風』によって守られた)と教育されていたのに、アメリカには大東亜戦争でフルボッコにされた。
 現代人の感覚では想像できないが、建国以来2600余年(紀元前660年に神武天皇が即位して日本が建国されたという、有り得ない神話が歴史的事実としてそのまま教育されていた)にして初めて日本が敗れたという事実は、当時の日本人にとって計り知れないショックだったのである。

 焼け野原になった日本の街を、進駐軍(実態は占領軍)の兵士が我が物顔で闊歩する。戦時中は英語が敵性語とされた日本の子供たちが恥も外聞もなく「ギブ・ミー・チョコレート!」と進駐軍の兵士にねだる。敗戦で困窮した可憐な大和撫子が進駐軍兵士のパンパン(娼婦)になる。『現人神』と崇め奉られた天皇が、ダグラス・マッカーサーに屈している(昭和天皇は自らを『朕(ちん)』と呼んでいたため、マッカーサーはヘソ【チンの上、という意味】と綽名された)。
 どれもこれも、日本人が見たくない光景ばかりだった。戦前はアメリカの物質主義を罵倒していたのに、戦後になってアメリカ文明がどっと押し寄せると、その便利さに誰もが虜になる。

 野球では、来日したサンフランシスコ・シールズが、川上哲治や藤村冨美男を中心とする全日本チームを圧倒した。しかも、このシールズはメジャー・リーグではなく、マイナー・リーグ(3A)のチームと知ってさらに驚く。日本のスター連中が束になってかかっても、アメリカの二軍には歯が立たないのだ。
 日本人が驚愕したのは、アメリカ人の体の大きさとパワー。科学力はもちろん、身体能力でも日本人はアメリカ人に全く敵わない。何をやってもアメリカには勝てない、と日本人は絶望した。

 そんな中で、力道山は日本伝統の空手チョップを振るい、大柄な外国人レスラーをバッタバッタとなぎ倒す。当時の日本人には「日本万歳!」と涙を流して力道山を応援する者もいた。
 つまり、日本ではプロレスの成り立ちからして特殊だったのだ。プロレスをショーと割り切って楽しむアメリカ人に対し、日本人は真剣勝負として捉えていたのである。

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン