「エディオンアリーナ」(大阪府立体育会館)
[週刊ファイト9月8日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼[Fightドキュメンタリー劇場 38] 井上義啓の喫茶店トーク
「大阪府立体育館物語」 I編集長 昭和の記憶
by Favorite Cafe 管理人
I編集長はファイト紙に「大阪府立体育館物語」と言うミニ連載を書いたことがある。猪木vs.ドリーの名勝負、また、シンvs.上田の異色対決など、アントニオ猪木、新日本プロレスの昭和の記憶が色濃く残る体育館である。
■ 闘いのワンダーランド #049(1997.02.11放送)「I編集長の喫茶店トーク」
1978.07.27 日本武道館
アントニオ猪木 vs. ボブ・バックランド(後半)
両者がリング内に生還するも時間切れ引き分け(放送画面キャプチャ)
(I編集長) 今日は二回の放送に分けて放送した猪木vs.バックランドの後半部分でした。バックランドは二本目に猪木からピンフォールを奪い、三本目はフルタイムの聞き分けに持ち込みましたね。なんとか「謎のマクマホン指令」をクリアしたと言えるでしょう。(注:「謎のマクマホン指令」の詳細は前回の喫茶店トークをお読みください)
(番組アンカーからの質問)WWWFチャンピオンで印象に残っているレスラーは?
(I編集長) 僕がWWWFチャンピオンで印象に残っているのは、やっぱりブルーノ・サンマルチノですね。力業で締め上げる単調な試合でしたけどね、強かったですよ。実際、ドラム缶にへばりついて締め上げてですね、じわじわじわじわ締めてヘコましたでしょ。
ブルーノ・サンマルチノ
(I編集長) それからサンマルチノも電話帳を引き裂くデモンストレーションもやりましたね。実は電話帳を引き裂くというのは、力じゃ無くてコツがあるらしいんです。もちろん力が無くちゃできませんよ。同じようにリンゴをつかんで潰すのも、実は指の使い方とかにコツがあるんですね。テクニックがあれば、「バーッ」と潰してみせることができるんです。だけども、ディック・ザ・ブルーザーやフリッツ・フォン・エリックがやった当時はみんな驚きましたよ。
ディック・ザ・ブルーザー、フリッツ・フォン・エリック
(I編集長) それと、サンマルチノは非常に義理堅い男でしてね。どんなことがあっても馬場との友情だけは貫きましたね。もしWWWFチャンピオンとして猪木と闘えと言われたとしても、もしも闘わなかったらチャンピオンを剥奪すると言われたとしても、それよりも馬場との友情を大切にしたいから、猪木とは闘わないと決めていましたからね。だから馬場さんもサンマルチノを大切に扱ったんですよ。サンマルチノは馬場が来てくれと言えば、何をさておいても行くと言ってくれましたから、馬場さんは感激してましたよ。全日本プロレス旗揚げの時にサンマルチノがイの一番に参加してくれたのも、それですよ。
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(I編集長) 一方では馬場さんのプロモーターとしての信頼も、もの凄く厚いですよ。みんなが馬場は必ず約束を守る男だと、そういうことを知ってるわけですよ。だから馬場さんは、NWAのグループでも顔がきいたんですよね。プロモーターの馬場が言うことだったら、協力してやると、皆が言ってましたね。それはサンマルチノだけじゃ無いですよ。ドリー・ファンクもそうだしね、バーン・ガニアまでそう言ってましたから。ガニアは、「馬場だけは例外だ。馬場が必要とするなら全面的に協力する」と言っていましたよ。当時ガニアは国際プロレスと結んでいましたから、提携する団体が違ってましたけども、そう話していたんです。
(I編集長) 私はそのバーン・ガニアを広島の原爆ドームとかに案内したことがあるんです。ガニアは奥さんと一緒に来日していましてね、一緒に案内して回りました。その時に、千羽鶴なんかを眺めて写真用のポーズをしてくれと頼んだら、快くやってくれましたよ。あれだけの大御所なのに、どんな注文にも応えてくれましたよ。
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(I編集長) 大御所といえば、ドリー・ファンク・ジュニアもそうですよ。ファイトの記者がアマリロに行って、ドリーの家を訪問したんですよ。取材が終わって帰るときに、ウチの記者が航空チケットがとれないから、何日かアメリカに滞在しなくちゃならない、どこか安いホテルに泊まることになると言ったんですね。そしたらドリーが、なんかフラッと出かけてしまったらしいです。それで1時間ほどで帰ってきて、ウチの記者に封筒を渡したと。それを開けてみたら、なんと航空券が入っていたんです。ウチの記者があれだけ手を尽くしても取れなかった航空券ですけど、やっぱり航空会社は最後の最後にVIPのために席を残しているんですね。ドリー・ファンク・ジュニアは顔がきくんですよ。地元では有名人だと言うこともあるんでしょうけど、やっぱりドリーの人柄ですよ。だから、このエピソードを聞いて、ドリー・ファンク・ジュニアを悪くは書けないなと思いましたよ。
週刊ファイトのアマリロ取材
(I編集長) 私は、ファイトの記者に「このレスラーとこのレスラーは、悪口は書くなよ」と言ったレスラーが何人かいますね。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ニック・ボックウィンクル、ミル・マスカラス、あたりですね。彼らについては、もう悪く書けなかったですよ。書くネタはあったんですけどね、なにかと週刊ファイトに協力してくれると、どうしても悪いことを書けないんですよ。
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(I編集長) たとえばマスカラスはね、あの人は雨が嫌いなんですよ。雨が降ってきたらとたんに機嫌が悪くなってしまう。マスカラスはメキシコの雨の少ないところに住んでますからね。ある日、大阪がドシャ降りの雨の日にですね、取材をお願いしていたんですよ。「こりゃ弱ったな」と編集部のみんなで話しましたよ。こんな日に、あそこに行ってくれ、こうやってくれ、なんて頼めないなと。ところがマスカラスは「ウィークリー・ファイトの頼みなら、なんでもやるよ」と言ってくれましたよね。それで雨の中を京都まで行きました。京都の取材ではマスカラスはマスクを脱いで、素顔になったんですね。京都なんかは外国人観光客も多いから、マスクをしていない方が目立たないんだ。自分はそんなに大きくないし、マスクを脱いでしまったら誰も俺の姿を見てプロレスラーだとは思わない、と言って素顔で歩いたんですね。
ミル・マスカラス密着取材(注:別の日の取材写真です)
(I編集長) デストロイヤーでもマスカラスでもそうだけども、マスクマンというのは親しい記者にでも素顔を見せたらいけない、と言うことを守っていましたからね。私も直接は見たことが無い。ディック・ベイヤー(デストロイヤー)はね、写真があるからそれを見て素顔を知ってはいますよ。でも、マスカラスの素顔は見たこと無いから知らないですよ。ウチの記者の坂井くんとかはね、スペイン語がペラペラでマスカラスとツーカーの仲でしたから、マスカラスが素顔を見せてくれたと言っていましたよ。でも彼以外のウチの記者には見せていないはずですよ。それほど、素顔を見せないことに徹底しておったんです。イメージを守るというプロの仕事に徹していたんですね。そうすることで、マスコミも「ヤッパリ、彼はプロだな」と感じると、そういう扱いで記事にしますよ。そういった相乗効果があるんですね。
この二人は、日本政府から旭日双光章を贈られている