[Fightドキュメンタリー劇場 28]藤波辰巳 海外武者修行・地獄のゴッチ特訓~凱旋帰国

[週刊ファイト6月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場 28] 井上義啓の喫茶店トーク
 藤波辰巳 海外武者修行・地獄のゴッチ特訓~凱旋帰国
 by Favorite Cafe 管理人


 ゴッチ宅での地獄の猛特訓。藤波は「なぜ毎日こんなに辛い練習をさせるんだ!」とゴッチのことを恨んだ。しかし今思えば、そんな考えをした自分は顔から火が出るほど恥ずかしいと言う。藤波の海外武者修行、そして凱旋帰国当時のエピソード。

■ 闘いのワンダーランド #043-044(1997.02.03-04放送)「I編集長の喫茶店トーク」
 1978.03.20 ニューヨークMSG
  藤波辰巳 vs. ジプシー・ロドリゲス

 1978.03.30 蔵前国技館
 藤波辰巳 vs. イワン・コロフ
  アントニオ猪木 vs. マスクド・スーパースター

(I編集長) 今日の映像は、海外武者修行から帰国した若かりし頃、颯爽とした若武者ぶりをみせた藤波の試合でした。昭和53年1月23日、ニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダを破って、スリー・ダブリュ・エフ(WWF)のジュニアヘビー級のベルトを奪う晴れがましい舞台を経て凱旋帰国したシリーズですね。

1978.1.23 MSG 藤波辰巳vs.カルロス・ホセ・エストラーダ

(I編集長) 藤波がこの海外武者修行に出発したのは、昭和50年6月でした。藤波が日本プロレスに入ったのが昭和45年6月で、翌年には新日本プロレス旗揚げに参加しましたね。そして新日の若手選手のメンバーも充実してきた昭和49年に、カール・ゴッチ杯というリーグ戦が開催されたんです。そのリーグ戦に優勝したのが藤波辰巳ですね。カール・ゴッチ杯は海外遠征の登竜門として行われまして、優勝のご褒美として藤波の海外武者修行が決まったわけです。まあ、本当はご褒美でも何でもないんですけどね。藤波がプロレスに入門して5年目のことです。

1974.12.8 刈谷市体育館 藤波辰巳(10分37秒 逆さ押さえ込み)小沢正志

(I編集長) そういった経緯で昭和50年6月に、藤波辰巳と木戸修の二人がヨーロッパに武者修行に行くことになりました。ただ、この時に藤波・木戸は喜び勇んで、張り切って飛行機に乗り込んだ訳じゃなかったんですよね。行き先は西ドイツ、言葉も何もわからないところに行くんですよ。住むところや試合の契約の世話なんかをしてくれる通訳なんていないですからね、プロレスの武者修行というのは、そういう過酷な状況に置かれることから始まるんですよ。どこに住むのか、どの会場で、誰とどういうふうに闘うのか、そういう事がまるっきりわからない、自分で考えながら決めてやらなくちゃならない、そんな状況で飛行機に乗ったんです。

 空港には猪木が見送りに来て、「機内で本でも読めよ」週刊誌を2冊渡してくれました。でも藤波も木戸も雑誌を読んでいるような余裕も無かったんですね。藤波は無口だし、木戸も饒舌なほうでも無いですからね。二人とも到着してからのことが心配で心配で、何も会話をしないまま、「どうしよう、どうしよう」と頭の中でグルグル考えながら飛行機に乗っていたんですよ。

▼藤波辰巳インタビューIn1978:『ベスト・オブ・闘竜』Vol.10

藤波辰巳インタビューIn1978:『ベスト・オブ・闘竜』Vol.10

(I編集長) そんな状態でも、とにかく西ドイツに着きました。空港には、グスタフ・カイザーという西ドイツのプロモーターが迎えに来てくれていたんですね。到着したら休息を取る時間なんて無いまま、プロレスの試合会場に直行ですよ。ニュルンベルグの会場です。プロモーターは「お前たちは、明日から試合に出ることになっている」と言っているようなんです。言葉がわからないから、当然、身振り手振りから理解するしかなかったんですけどね。「えー?、住むところも決まっていないのに」と驚いたんですが、何もわからないから指示されるようにやるしか無かったんです。
 それで控え室に入ったところが、これまたビックリしたと言うんですね。そこには、ビル・ロビンソン、ホースト・ホフマン、ジョージ・ゴーディエンコ・・・・そんな蒼々たるメンバーがズラーッと総勢15人もいたんです。この大会は大きな大会だったんです。しかし無論、藤波と木戸はペーペーですから、第一試合の10分一本勝負に出してもらえるか、もらえないかですよ。そういった状況に放り込まれて、ドイツでの武者修行が始まったわけです。

国際プロレスが招聘した欧州の強豪(国際プロレスパンフレットより)

(I編集長) こんな風にしてなんとか仕事は出来るようになった。ところが、何回も申し上げておりますように、言葉が通じないんですよね、これ。当時の西ドイツは、今の日本とは違いますからね、コンビニがあるわけではないし、スーパーマーケットもどこにあるのかわからない。だから食べるものを買うだけでも非常に困るわけです。マーケットを見つけて行ったところで、今度はタマゴを何個くれということが喋れないですよね。だからもう藤波は、どうしようも無かったと話していました。ドイツでは安物のペンションみたいなところで寝泊まりしていたらしいんですね。安物だからガスコンロとかの炊事設備が無かったんです。そして食う物もなんにも無い。ただ、日本からインスタントラーメンをたくさん持って行ってたんですね。しょうが無いから、そればっかり食っておったらしいです。ただし、ガスコンロが無いからお湯が沸かせないんですよ。仕方ないので風呂場のシャワーのお湯を使ったと言うんですね。でもシャワーですからね、いちばん熱くしても知れてますわね。藤波は「3ヶ月間、ほとんど毎日、シャワーでふやけたインスタントラーメンばかり食べていた。よくそんな食べ物だけで体力が持ったもんだ」と思い出話をしてくれました。木戸修と二人で「俺たちはいつになったら温かい米の飯とあったかい味噌汁、おいしいパンなんかが食えるんだろうな」としみじみ話したということなんです。

(I編集長) そうやって半年ほどドイツで試合をしてから、次にフロリダ・タンパのゴッチの元に行ったわけです。今度はもう朝から晩まで猛特訓の毎日ですよ。ここで5ヶ月間、まず朝は食事の前に6時半から5マイル(約8km)のロードワークをするんです。ゴッチですから、大雨が降ろうが、槍が降ろうがですね「今日は休みだ」なんてことは絶対に言わない。5ヶ月間、一日も休まずにやらされました。そしてロードワークのあとは一日中、地獄のトレーニングですよ。

レスリング技術とトレーニングにこだわる真面目な印象しかない

(I編集長) 藤波は言っています、「今から考えるとよくあのシゴキに耐えたと思う。しかし、あれがあったおかげで今日の私がある」と。藤波は当時「何でこんなにしんどいことをさせるんだ」とゴッチのことを恨んだらしいですね。でもそんな考えをしたことは、今から考えると顔から火が出るほど恥ずかしいと言っています。

(I編集長) 5ヶ月間のトレーニング生活のあとゴッチの手配で、ノースキャロライナのジム・クロケットJRのところで試合が出来るようになったんです。そこで一年間ほど試合をこなしたあと、昭和52年に入るとメキシコにも行きました。そしていよいよ昭和53年1月23日、マジソン・スクエア・ガーデンに乗り込んでいくことになるんです。

週刊ファイト1977年9月27日号より

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