デビル紫・日本で最初の正体割れ覆面レスラー!大木金太郎さん命日

 10月23日は、昭和44年から昭和55年まで国際プロレスや海外で活躍した覆面ヒールレスラーのデビル紫が食道がんで亡くなられてから4年目の命日だった。

 デビル紫(1942年4月30日~2017年10月23日)。本名は、村崎昭男。
 大阪府八尾市の出身で、プロレスラーになる夢を捨てきれず海上自衛隊を除隊、昭和42年に国際プロレスに入門し、サンダー杉山の付き人をして修行するも体格に恵まれず芽が出ないでいたときに、社長からキャラチェンジを勧められヒールターンを決意、リングネームをデビル紫に改めるが、このときはまだマスクマンではなく髪色を紫に染めていた。

 その後、国際プロレスに参戦したディック・ザ・ブルーザーに気に入られ海外遠征のチャンスを掴む。
 このとき所属の国際プロレスからは渡航費用を出して貰えず困っていたのだが、全日本プロレスの旗揚げ戦に出場した際、気に入ってくれた馬場元子夫人から餞別を受け取ってアメリカ合衆国へと旅立った。


 昭和44年11月17日 大阪府立体育会館における『IWA世界タッグ・シリーズ』、この日メインは「ストロング小林vs.バデイ・コルト」の60分3本勝負が行われたが、第三試合において「藤井三吉vs.村崎鬼三」の記録(藤井の勝利 卍固め 12分43秒)が残る。さすがにその試合の写真は残ってないが、<第6試合 タッグマッチ45分3本勝負>の「Iキャンベル&Bアーリントンvs.シャチ横内&フランク・バロア」における世話役をしている村崎鬼三を発掘した。

 紫はWWA、カナダ、メキシコ、南米各地を主戦場として渡り歩き活躍した。

 カナダを転戦していた時、合流した仲間の不運な事故に遭遇、自責の念に駆られた紫はカナダを出て、活動の場をメキシコに移した。
 このころにマスクマンに興味を抱きはじめ、昭和50年スペインで、マスクマンとして試合に出場を果たしたと言われている。

海外遠征から帰国後、デビル・ムラサキとなってからの国際プロレス『パイオニアシリーズ’80』

 昭和51年に共同生活を送りながら転戦していた鶴見五郎と共に帰国したが、国際プロレスは既に崩壊の危機に瀕しており、もはや紫を売り出す余裕もトップにはなかったが、どうにかこうにかリングに上げてもらえるところまで漕ぎつけ、「日本人初の本格マスクマン、デビル・紫」が誕生した。
 だがその後、これまでの無理が祟って体を壊し、目立った戦歴を上げること叶わず昭和55年に現役を引退した。
 正体が知られていてマスクを被った初の日本人覆面レスラーと言われている。

 プロレスラーとしては、半ば運命に翻弄された格好で辛苦を舐めた感があるが、プロレス業界との付き合いを断って以降転職もうまくいき晩年はお孫さんたちに囲まれ幸せな人生を送られたという。
 ちなみに現在全日本プロレスのマットに突如として出現、台風の目となっている噂のデビル紫は2代目ということになるが、素性性明らかでなく初代との血縁所縁は一切不明。


 不遇に終われどなんらかの開拓者=パイオニアであった選手たちの再評価は、専門媒体として力を入れておく必要がある。
 10月26日は大木金太郎さん命日(1929年2月24日 – 2006年10月26日)だ。大木さんのことは本誌がもう何度も取り上げているので、本稿では記事にはしないが、リンクは紹介しておく。

故・I編集長、アントニオ猪木、大木金太郎

▼猪木vs.大木 「業界の掟を破った猪木。そこが凄いところですよ」

[Fightドキュメンタリー劇場⑨]猪木vs.大木 「業界の掟を破った猪木。そこが凄いところですよ」


ジャンボ鶴田戦も記憶に残る大木金太郎


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