ケン・片谷の「アントニオ猪木とオイラ」

▼ケン・片谷の「アントニオ猪木とオイラ」
・憧れのプロレスラーはアントニオ猪木!
・“猪木派”を貫き通した少年時代
・猪木にあやかり体重は“永遠の102kg”
・初の“生猪木”観戦
・猪木と行くパラオツアー
・そして奇跡は起きた!
・最後なんて言わせない“最後の闘魂”


 どんなプロレスラーも、子どもの頃に憧れたレスラーの一人や二人は必ずいたはずです。

 オイラの場合、憧れのレスラーはアントニオ猪木さんでした。

 オイラがプロレスに興味を持ち始めた1970年代後半、プロレス団体は新日本、全日本、国際の3団体。全女を入れても4団体しかありませんでした。
 当然全団体毎週テレビ中継があり、放送があった翌日は、学校ではプロレスの話題で持ちきりでした。特にヒートアップしたのは、教室が“馬場派”“猪木派”に真っ二つに分かれ激論を飛ばし合う時でした。

 オイラは迷わず“猪木派”でした。
 豪華な外国人選手が数多く来日し、華やかでショーマンシップなアメリカンプロレスを魅せてくれる全日本プロレスも、ちょっとマニアックで個性的なヒールレスラーが来日する、勧善懲悪がウリの国際プロレスも、家庭用ビデオデッキが無かったあの頃はOn Airの時間になるとテレビにかじりつくように観ていましたが、なぜだかオイラのハートを射抜いたのは新日本プロレスだったのでした。
 当時は“ストロングスタイル”などという言葉も知りませんでしたが、子どもながらに新日本プロレスに“闘う男たちの強さ”を感じていたのだと思います。

 オイラがプロレスを好きになったのは、父親の影響が大きかったのかも知れません。
 物心ついた時からお茶の間でプロレス中継が流れていたので、猪木さんの異種格闘技戦や、タイガー・ジェット・シン戦の腕折り事件などはかすかな記憶として残っています。父は柔道経験者ということもあり、坂口さんのファンでした。そんな理由もあり、新日本プロレスを観る機会が多かったのだと思います。

 憧れの人に一歩でも近付きたい一心で、オイラのプロフィールの中で一つだけ猪木さんのものをパクったものがあります。
 前回もお話しましたが、それは体重です。デビュー以来、公式体重を猪木さんと同じ102kgとしています。デビュー当時は、どうしても越えることのできなかった100kgの壁。今でははるかに102kgを越えてしまいました(笑)。
 身長はどんなに努力しても変えることはほとんどできませんが、体重は常に流動的です。そこはちょっとだけ多目にみていただき“永遠の102kg”でいさせてください。

 オイラが初めて“生”猪木さんを観たのは、忘れもしない1980年8月24日のブラディファイトシリーズ田園コロシアム大会でした。当時新日本は、一年に一回程度のペースで今は無き田園コロシアム、通称田コロで興行を行っていました。
 ピンと来た方もいらっしゃると思いますが、オイラが観たのは、1981年9月23日の“伝説の田コロ決戦”のちょうど一年前の大会でした。伝説の田コロ決戦とは、言うまでもなくスタン・ハンセンvs.アンドレ・ザ・ジャイアントのスーパーヘビー級対決や、国際プロレス崩壊後のはぐれ国際軍団が初めて新日本マットに挑戦直訴(いわゆるラッシャー木村さんのこんばんは事件)した日として今も語り草となっている大会です。

 そして今回、なんと当日の試合結果を入手しました!
 41年前の興奮が今甦ります。あぁ、なんて便利な世の中なのでしょう。


≪新日本プロレス ブラディファイトシリーズ第3戦≫
1980年8月24日(日)田園コロシアム 試合開始18時 観衆5,500人

▼15分1本勝負
①○荒川真(9分40秒 逆さ押さえ込み)魁勝司●

▼20分1本勝負
②○ジョージ高野(11分48秒 片エビ固め)●前田明

③○木戸修(10分48秒 回転エビ固め)藤原喜明●

▼30分1本勝負
④○長州力(11分43秒 首固め)永源遥●

⑤○ストロング小林(8分33秒 体固め)剛竜馬●

⑥○バッドニュース・アレン(5分45秒 反則勝ち)坂口征二●

▼45分1本勝負
⑦○藤波辰巳 星野勘太郎(11分59秒 回転エビ固め)トニー・ロコ ●ジョニー・ロンドス

▼NWA認定インターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権試合=61分1本勝負
⑧○木村健吾<王者>(19分13秒 片エビ固め)●ピート・ロバーツ<挑戦者>
※木村健吾が初防衛に成功

▼60分3本勝負
⑨アントニオ猪木 ボブ・バックランド(2-1)スタン・ハンセン ラリー・シャープ

1)●ボブ・バックランド(15分29秒 両者フェンスアウト)スタン・ハンセン●
2)○ボブ・バックランド(3分2秒 体固め)●ラリー・シャープ

 この大会は、確かノーテレビだったと記憶していますが、猪木さんの試合だけでなく好カード、異色のカード目白押しです。

 第2試合では、ジョージさんが先輩の意地を見せ、前田さんを破っています。

 第3試合は、後のUWF対決。この頃まだいち前座レスラーでしかなかった藤原組長を、木戸さんが軽く一蹴しています。

 第5試合は、元国際対決! 両者ともに古巣国際プロレスを飛び出して、新たな闘いの場を新日本プロレスに求めた者同士です。

 第6試合は、元柔道王対決! この両者は、柔道ジャケットマッチが話題となりましたね。

 そしてメインイベント。待ちに待った猪木さんの入場です。
 この試合のパートナーは、ニューヨークの帝王ボブ・バックランドです。この年の年末に行われた第1回マジソン・スクエア・ガーデンタッグリーグ戦ではチームを作って参戦している二人。“帝王コンビ”のリーグ戦参戦は、この日がきっかけとなったのかも知れませんね。

 また、ハンセンのパートナー、ラリー・シャープは、後にクラッシャー・バンバン・ビガロらを輩出したモンスター・ファクトリーの“工場長”として名を馳せました。

 何分、41年も前のことですので、試合の内容を詳細に覚えているわけではありませんが、とにかく猪木さんがカッコ良かったことだけはよく覚えています。
 この日から、オイラの猪木さん贔屓、新日本贔屓はどんどん加速していくのでした。

 社会人になると、プロレスへのお金の掛け方も変わっていきます。
 その頃ハマったのは、猪木さん絡みの海外ツアーでした。

 1995年には、北朝鮮の平壌の平和の祭典へ。
 猪木さんに会えるのはもちろんのこと、普通は滅多に渡航することができない北朝鮮に行けたのは、海外旅行好きのオイラにとってかけがえのない経験となりました。

 1996年は、ロサンゼルスの平和の祭典へ。試合後のパーティーでは、選手と身近に過ごす機会が儲けられました。プロレスファンにとっては至福の時間です。

 そして、1997年にはついにパラオのイノキアイランドに行くことができました!
 この時は、猪木さんの他に小川直也さん、佐山サトルさん、石澤常光さんも同行しました。試合(興行)がなかった分、猪木さんと濃密な時間を過ごすことができた貴重なツアーでした。

 そして、後にこれらのツアーでの経験が、とんでもない奇跡を起こすことになるのです。

 当時、オイラは仕事の都合で北海道に住んでいました。ある時、大学時代の親友の結婚式に参列するため、横浜の実家に帰省しました。
 結婚式当日、オイラはビシッとスーツに身を固め、実家を出ました。当然、結婚式場に向かったはずでしたが、気付くと何故か原宿駅に降り立っていました。今思い返してもとても不思議な感覚なのですが、それはまるで自分の頭と体が全く別の人格を持ったかのように、何かの力で体だけ原宿駅に引き付けられたようでした。

 その日は、代々木第二体育館で猪木さんの試合がありました。会場にはパラオの仲間がいたのですが、結婚式に行ったはずのオイラが目の前にいるのでみんなビックリ! 狐につままれたような顔をしていました。
 驚いたのは結婚式場の友達も同じです。
 携帯電話もまだまだ一般的ではなかった時代、友達に連絡を入れることもできなかったので、式場は大パニックになっていました!

『飛行機にトラブルがあったのではないか?』
『式場に向かう途中、事故にでも遇ったのではないか?』
 その友人には今でも頭が上がりません(笑)。

 何はともあれ、代々木第二体育館に来てしまったのですから、ここは躊躇なく猪木さんの試合を堪能するしかありません。

 試合終了後、オイラたちは会場の外で猪木さんの出待ちをしました。
『猪木さんはオイラたちのことを覚えているだろうか? もし気付いてくれたら、ひと言パラオでお世話になったお礼が言いたい。』
 などと考えていました。

 どれくらい待ったでしょうか? 猪木さんがバックステージから出てきました。
 すると、なんとすぐに猪木さんはオイラたちの存在に気付いてくださったのです!

『よう! 来てたのか? よしっ、行くぞっ!』
 そう言うと、会場の外に待たせてあった二台のタクシーへオイラたちにも乗るように促したのです。
 タクシーが行き着いた先は六本木。
 信じられないことですが、なんと猪木さんはオイラたちのことを飲みに連れていってくださったのです!
 猪木さんと同じテーブルで酒を汲み交わす・・・。
 まるで夢でも見ているかのようです。
 数時間ご一緒させていただいたはずなのに、不思議と何を話したのかほとんど覚えていません。 きっと、それだけ緊張していたのでしょう。

 その日の朝、もし予定通り友達の結婚式に行っていたら、こんな奇跡は起こり得ませんでした。それどころか、猪木さんと一緒に飲みに行った友達を一生恨んでいたことでしょう。

 この日は間違いなく何かの力に動かされていたような気がします。それは、プロレスの神様のいたずらだったのでしょうか? いや、きっとそれまでずっとプロレスを、猪木さんを愛してきたご褒美だったのだと思いたいです。

 今、猪木さんはYouTubeで『最後の闘魂』と題して発信を続けていらっしゃいます。
ファンとしては猪木さんの今の姿が観られるのは嬉しいことなのですが“最後”というのが気に入りません。正直、体調は思わしくないようですが、だからといって“最後”などという言葉を使って欲しくないのです。

 猪木さんは、どんな時でも我々に夢と勇気を与え続けて来られました。
 そして猪木さん自身、何度も崖っぷちに立たされながらもその度に復活してきました。
 だから今度も必ず復活します!
 YouTubeの小さな画面の中ではなく、大会場のリング上で真っ赤な闘魂タオルをゴシゴシしながらみんなの前で“1、2、3ダァー!”をやってくれる日が必ず来ます。

 日本中の、いや、世界中の猪木信者よ! 心を一つにしてその日をじっと待ちましょう!


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