[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第80回  藤波VS猪木が行われた横浜文体で「あわや大惨事」という騒動が・・・

トップ画像:横浜文化体育館のオフィシャルホームページより

[週刊ファイト9月24日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第80回
 藤波VS猪木が行われた横浜文体で「あわや大惨事」という騒動が・・・
・坂口征二副社長(当時)を狼狽させるヤバイ事件が起きていた
・84年に次々に起きた選手離脱により、新日プロの観客動員はジリ貧
・メーン終了後に坂口に聞くと、彼は笑いながらこう経緯を説明するも
・坂口の正義感と責任感は立派すぎたが、しかし横浜文化体育館は・・・


 9月6日に58年の歴史に幕を下ろした横浜文化体育館。大日本プロレスの8・30横浜文体に来場した藤波辰爾(腰椎狭窄症のため欠場)にとっても思い出深い会場であり、藤波はリング上で挨拶を行った際、アントニオ猪木との激闘を振り返った。88年8月8日、同体育館にて行われたIWGPヘビー級戦のことだが、実は同大会の舞台裏では坂口征二副社長(当時)を狼狽させるヤバイ事件が起きていた。


 1962年の開館以来、日本プロレスをはじめ数多くのプロレス団体に使用されてきた横浜文化体育館(以下、横浜文体)。力道山没後から数年経つと、元レスラーで日プロ幹部の遠藤幸吉氏が会社から興行権を買い取りプロモートするようになったが、先輩記者によると、当時、横浜文体大会が行われるときの降水確率は90%。このため、遠藤氏に「雨男」というニックネームが付けられたという。

 開催時期が最大の要因と考えられるが、70年代になって新日プロの同大会を請け負うようになってからも雨続き。遠藤氏は、このニックネームを返上できなかったという記憶が残っている。


雨男と言われていた遠藤幸吉氏

 この横浜文体、90年代になって大日本プロなどインディーズも進出し始めたが、弱小団体にとってはビッグマッチ感覚であっても日プロ、新日プロといったメジャー団体にしてみれば地方大会の1つにすぎなかった。

 だから、88年8月8日、王者・藤波辰爾vs.挑戦者アントニオ猪木のIWGPヘビー級戦というビッグカードが横浜文体で行われたのはまさに異例。一部のファンから「なぜ、首都圏の大会場でやらないのか?」との疑問が上がった。

 実は、この背景にはドン底まで落ち込んだ新日プロの興行人気があった。

 84年に次々に起きた選手離脱により、新日プロの観客動員はジリ貧に。さらに、惨状のシニセ団体の興行に追い討ちをかけたのが88年4月に旗揚げした第2次UWFだった。

 簡単に言えば、一般マスコミがこの第2次UWFを「真剣勝負のプロレス」として大きく取り上げたことで新日本プロレス=ショーと見られるようになり、いっそうチケットが売れなくなったのだ。

 で、「1万人規模の大会場は荷が重い。しかし、キャパ4千数百人程度の横浜文体なら手売りのチケットを含め満員にできるだろう」と皮算用したものの、最低でも1000枚以上のチケットが売れ残る見込みとなった。

 この時点でのベストカードを“放出”するだけでなくテレビ中継も入っており、新日プロとしては空席が目立つことだけは、どうしても避けたかった。

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