[ファイトクラブ]プロレス界も藤川球児に学びたい、コーチングの重要性

[週刊ファイト9月17日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼プロレス界も藤川球児に学びたい、コーチングの重要性
 by 安威川敏樹
・今季限りでの引退を発表した阪神タイガースの藤川球児投手
・クビ寸前から一転、山口高志コーチの助言により覚醒した藤川球児
・専任コーチが少ない日本のプロレス界
・コーチから大スターに、有り得ない大出世したザ・グレート・カブキ
・引退後も鬼コーチであり続けた山本小鉄
・山本小鉄が若くして引退したのは、専任コーチではなく解説者になるため?
・コーチング先進国のアメリカでは、WWEで専任コーチのシステムを採用
・コロナ禍により、WWEはコーチだったケンドー・カシンらを解雇
・プロレスでもコーチングの確立は必要


 阪神タイガースの藤川球児投手(40)が、今季限りでの引退を発表した。藤川は日本を代表するクローザーで、名球会入りの条件である日米通算250セーブまであと5つに迫っている。
 藤川の代名詞と言えば、打者の手元で浮き上がる“火の玉ストレート”だ。近代野球での投手は、様々な変化球を駆使することが必要とされるが、藤川の全盛期は投げる球のほとんどがストレート。それでもプロの一流打者が、藤川のストレートは来ると判っていても打てないのである。

 しかし、藤川はプロ入り当初から“火の玉ストレート”を投げられたわけではない。あるコーチとの出会いが、藤川を劇的に成長させたのだ。
 プロ野球のコーチとは、それほどまでに重要な存在なのである。それでは、プロレスのコーチはどうなのだろうか。

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クビ寸前から一転、山口高志コーチの助言により覚醒した藤川球児

 藤川球児は1998年のドラフトで、阪神に1位指名されて高知商業からプロ入りした。いわゆる松坂世代である。しかし、その期待とは裏腹に、2003年までの5年間で僅かに2勝。一軍と二軍を行ったり来たりするエレベーター投手で、しかも故障がち。
 2004年は背水のシーズンで、この年に結果が出なければ、シーズン終了後には避けるべくもない戦力外通告が待っていた。藤川が二軍で喘いでいる間に、同い年の松坂大輔や杉内俊哉、和田毅らは既に各チームの主力投手となっていたのである。藤川が、焦りを感じないわけがない。
 一軍キャンプに参加した藤川は、連日ブルペンに入って首脳陣に猛アピール。しかし右肩に痛みが走り、診断の結果は『右肩腱板炎』という非情な通知で、また二軍落ち。「もう今年で終わりか……」藤川は絶望的な気分になる。まだ20代前半なのに、今シーズン限りで間違いなくクビだ。

 シーズンが始まっても、藤川は一軍に上がるどころか、二軍でも登板の機会すらなくリハビリの毎日。そんな藤川に、声を掛ける人物がいた。二軍の投手コーチだった山口高志である。
 しかし、藤川はコーチの言葉すら聞く耳を持たなかった。二軍ズレしていた藤川は、山口コーチのアドバイスを鬱陶しく思っていたのである。
 ところが、前年から二軍コーチに就任していた山口コーチは、藤川に思いがけない言葉を放つ。
「なあ球児、フォームに問題があるんとちゃうか?」

 山口コーチは現役時代、阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)で八面六臂の大活躍をした投手だ。その速球は『終速150km/h』と言われ、打者はみんな高めのボール球に手を出して空振りする。先発とリリーフお構いなしに投げまくったため、活躍した期間は僅かに4年間と短かったが、もし現在のように投手分業制が確立していたら、史上最高の速球投手になっていたと断言するプロ野球関係者は多い。
 山口コーチは身長169cmという小さな体から、全身を使って真上から叩き付けるようなフォームで投げ込み、その球筋は打者の手元でホップする。初速と終速の差がないため、打者は高めのボール球でも手を出してしまうのだ。

 そんな伝説の投手が、お前のフォームに問題があると言う。藤川は即座に否定した。子供の頃から、このフォームで投げてきたのだ。それで打者を三振に打ち取ってきたのだ。実際にプロ入り後も、万全の状態なら一軍の打者も牛耳っていた。そうでなくても投手は、自分のフォームに拘りを持っている。もしフォームを改造して、悪い結果が出た場合が怖いのだ。
 しかし、山口コーチは粘り強く説得した。この頃の藤川のフォームは、右膝がマウンドに着くぐらいまで沈み込み、腰を捻って投げる。これが、肩や肘に負担をかけているというのだ。
 右投手の場合、右膝を大きく曲げて投げることを奨励する投手コーチは多い。そうすれば下半身が安定して、右膝が突っ立って投げるよりも低めへのコントロールがつきやすいからだ。さらに、右膝がマウンドに着くぐらい深く沈めることによって体がしなるため、球に威力が出る。

 しかし、そのフォームがお前には合っていないと、山口コーチは指摘した。右膝を曲げ過ぎず、腰も捻らず突っ立ったような状態で、真上から叩き付けるように投げ下ろす。まさしく、山口コーチの現役時代のフォームだ。そうすれば、肩や肘への負担が減るだろう、と。
 それまでの藤川は、故障しない体作りに励みながら、故障から解放されなかった。しかし、投球フォームを改善して故障をなくすという方法は、藤川の発想にはなかったのである。
 それ以来、藤川は山口コーチと二人三脚でフォーム改造に取り組んだ。藁にも縋る思いだった。

 ブルペンで、新フォームで投げてみると、多少は球の切れが良くなったように感じる。だがそれ以上に、いくら投げても体に痛みが来なくなった。新フォームの効果は予想以上だったのだ。
 それまでは、先発して立ち上がりはいいピッチングをしても、後半になればガクッと球威が落ちてしまう。リリーフで投げても、連投が利かないため戦力にはならなかった。ブルペンで投げ込むと、すぐ故障してしまうので持ち球を磨くことができない。
 しかし今では、いくら投げても痛みが来ないのだ。それが藤川にとって、何よりも嬉しかった。あとはブルペンで投げ込んで、新フォームを完成させるだけだ。

 久しぶりに二軍戦で登板すると、打者は高めのクソボールを空振りする。なんだ、このヘボバッターは? 藤川はそう思った。だが、二軍の打者はみんなヘボバッターばかりだった。
 二軍での好投が認められて、藤川は一軍に昇格。ところが、一軍もヘボバッターばかり。いや、日本を代表する強打者が、みんなヘボバッターよろしく高めのクソボールを空振りする。
 彼らはヘボバッターではなく、フォーム改造によって藤川の球が劇的に進化したのだ。藤川のストレートは、真上から叩き付けて投げることにより強烈なバックスピンがかかり、ニュートンを嘲笑うかのように地球の引力に逆らって浮き上がる。山口コーチの現役時代と同じ球筋だ。
 そのことに気付き、自信を持った藤川は2004年の後半、完全に一軍定着を果たした。

▼藤川球児のホップする“火の玉ストレート”
https://www.youtube.com/watch?v=intAYwHSrj0

 翌2005年は“JFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)”という強力なリリーフ陣を形成、セットアッパーとして53ホールド・ポイントを挙げて最優秀中継ぎ投手に輝き、阪神のリーグ優勝に大きく貢献した。前年、クビに怯えていた男がタイトルホルダーになったのだ。
 翌2006年のWBCでは日本代表に選ばれ、メジャー・リーグを代表するスラッガーのケン・グリフィーJr.に高めのボール球を振らせて三振に斬って取り、グリフィーは「ボールが浮き上がってきたぜ! あんなストレートは見たことがない」と完全にシャッポを脱いだ。

 2006年のシーズン途中からクローザーに転向、2007年には日本タイ記録(当時)となる46セーブを挙げてセーブ王を獲得し、日本を代表する抑え投手になったのである。
 後にはメジャーに挑戦するまでに成長したが、山口コーチの一言がなければ20代前半で引退を余儀なくされていただろう。それが、四十路の声を聞くまで現役を続けたのだ。

▼キャンプ前、二軍本拠地の阪神鳴尾浜球場で自主トレを行う藤川球児

コーチから大スターに、有り得ない大出世したザ・グレート・カブキ

 藤川球児の例を見れば判るように、プロ野球におけるコーチは非常に重要な存在だ。いや、野球だけではない。他のスポーツでも、コーチングは年々重視される傾向にあり、その専門性も高まっている。良いコーチがいるチームや団体は間違いなく強いし、いなければいくら良い素材の選手がいても育たない。能力のないコーチのために、せっかくの選手が潰れてしまうこともある。

 それでは、プロレス界ではどうか。プロレスでは専任コーチというのは少なく、現役選手がコーチも兼ねることがほとんどだ。プロ野球でも選手兼コーチはいるものの、それは出番の少なくなったベテラン選手がコーチを兼任するという、引退後のコーチ就任を見据えての修業である。
 ところが、プロレス界では現役バリバリの選手がコーチ役を担うことが多い。これは、日本のプロレス界の特殊な成り立ちも影響しているのだろう。

 日本プロレスを創設した力道山は、社長兼エース兼コーチだった。本人が創始者だったのだから仕方がない。力道山自身は、元レスラーでレフェリーの沖識名からプロレスのコーチを受けていた。
 ジャイアント馬場やアントニオ猪木が日プロに入門した時には、力道山や沖識名、アマレス出身の吉原功らがコーチ役だったという。レフェリーの沖識名はともかく、力道山と吉原は現役レスラーだった。そもそも、元選手とはいえ審判がコーチというのも他競技ではまずないだろう。

 猪木が新日本プロレス、馬場が全日本プロレスを興した時も、現役レスラーがコーチを務めるというスタイルは変わっていない。全日の設立当初はマシオ駒が選手兼コーチを担っていたが、35歳の若さで急逝すると、高千穂明久がコーチ役を務めるようになった。後のザ・グレート・カブキである。この時の高千穂は、まだ20代だった。
 もちろん現役だったが、後輩のジャンボ鶴田が既に№2となっており、大相撲から天龍源一郎もスター候補生として入門している。日本プロレス残党の高千穂がスターになるのは不可能だった。

 それでも、まだ現役への未練があり、アメリカ・マットが水に合っていた高千穂は、馬場にアメリカ行きを直訴する。しかし馬場のOKは出ず、元子夫人からはこう言われた。
「高千穂さんがいなくなったら、誰がコーチをするんですか!?」
 この一言で、もう現役レスラーとしては期待されていないと、高千穂は悟ったのである。
 それなら、なおさら日本にいても仕方ない。高千穂は、粘り強く馬場にアメリカ行きを訴え続けた。馬場もようやく折れて、1年だけアメリカ行きを許可する。

 約1年半後、高千穂は一時帰国して『プロレス夢のオールスター戦』に出場したが、翌年にはまたアメリカへトンボ返り。この再渡米が、高千穂の運命を一変させる。
 テキサスでの高千穂は、ザ・グレート・カブキに変身した。当時はまだ珍しかったペイント・レスラーだったこともあって、カブキはたちまちトップ・ヒールにのし上がったのである。

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