[週刊ファイト9月6日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼山本小鉄が亡くなって8年。プロレス界のパワハラ問題はどうなったか!?
by 安威川敏樹
・『日本語話し方講座』に通った、リングサイドの名解説者
・他団体のホーム・グラウンドでヤマハ・ブラザーズが大暴れ
・他団体蔑視が激しかった山本小鉄
・現代のパワハラ問題に照らし合わせると、山本小鉄の指導はどうなる!?
・体罰を否定するスタン・ハンセン
8月28日は山本小鉄の命日である。山本小鉄が亡くなったのは2010年のこと。つまり、あれから8年も経ったわけだ。まだ68歳だった。
山本小鉄が亡くなった頃、プロレス界は暗黒時代の真っ只中。亡くなる前の10年間は、ずっと暗黒時代だったと言っていい。山本小鉄にとって、さぞ苦しい晩年だったことだろう。
現在のプロレス界、特に山本小鉄が育てた新日本プロレスはV字回復を遂げ、黄金時代と同じように会場はどこでも超満員となっている。草葉の陰で山本小鉄も喜んでいるのだろうが、本人が考えていた理想のプロレスとは離れて行っているのかも知れない。
▼山本小鉄が亡くなったとき、訃報を伝える本誌
『日本語話し方講座』に通った、リングサイドの名解説者
本名、山本勝。太平洋戦争が始まる約1ヵ月前の1941年10月30日に、山本小鉄は神奈川県横浜市で生まれた。どうでもいいことだが、漫画『じゃりン子チエ』に登場する猫の小鉄は、山本小鉄から取ったのだろう(漫画の中では、テツの子分みたいだから小鉄と名付けられた)。
山本小鉄は『Y校』こと横浜市立横浜商業高校を卒業すると、ボディービルを経て1963年2月に、力道山が設立した日本プロレスに入門。その年の12月15日には力道山が亡くなったから、力道山との付き合いは僅か10ヵ月だったことになる。山本小鉄は、力道山にとって最後の弟子だった。
しかし、その力道山に前座試合を褒められ、山本小鉄にとって力道山に関する最高の思い出だったという。
1967年1月には星野勘太郎とアメリカ遠征。このときに名タッグ・チーム『ヤマハ・ブラザーズ』が誕生する。アメリカ遠征した他の日本人レスラーは食うこともままならず、会社に「金オクレ」の電報を打ったが、ヤマハ・ブラザーズはアメリカでも人気を博して、山本小鉄と星野勘太郎はドルを稼いだ。当時はまだ1ドル=360円の固定相場制だった。
1972年には、日本プロレスを追放されたアントニオ猪木に追従し、猪木が興した新団体の新日本プロレスに参加する。そして1980年4月4日に引退。まだ38歳という、プロレスラーとしては早すぎる引退だった。
しかし、ここからが山本小鉄の真骨頂である。テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』の解説者となった山本小鉄は、たちまちお茶の間に浸透していった。
ちょうど、この頃はプロレス・ブームが沸き起こっていた時代。実況は、まだテレ朝のアナウンサーだった古舘伊知郎氏である。古舘氏と山本小鉄による絶妙の掛け合いが、プロレス中継を盛り上げていった。
「山本さん! キラー・カーンがかなり優勢ですね!!」
「今、キラー・カーンが攻めているように見えますが、実は悪い面を見せてるんですよ」
「どういうことですか?」
「カーンの体重が相手に乗ってないので、逃げられやすくなっています」
それまでのプロレス解説者といえば、大抵はプロレス記者が務めていた。プロ野球中継の解説はプロ野球出身者が務めるが、プロレス中継ではプロレス未経験者が解説していたのである。プロレス記者はエピソードなどには詳しいが、技の細かい部分までは解説できない。
遠藤幸吉や芳の里淳三など元プロレスラーの解説者もいたが、それほど鋭い解説をしていたわけではなかった。
そこへいくと山本小鉄は、技の細かい部分まで解説し、それまでのプロレス解説にはないスタイルを確立したのである。その野太い声による解説は、プロレス・ファンを魅了した。
しかも、解説者になると決まったときに、山本小鉄が通ったのは、なんと『日本語話し方教室』! 通った理由は「口下手だったから」だそうだが、解説を聞いているととても口下手とは思えない。
たとえば『目の当たりにする』は『まのあたりにする』と読むことを、『日本語話し方教室』で初めて知ったそうだ。
プロ野球中継を見ていても、まともな日本語を喋れない解説者がいる。そんな解説者には、山本小鉄の爪の垢でも煎じて飲んでもらいたい。
▼解説者を務めるために『日本語話し方教室』に通ったという山本小鉄(白いシャツの男)
他団体のホーム・グラウンドでヤマハ・ブラザーズが大暴れ
時計の針を山本小鉄の現役時代に戻そう。山本小鉄が新日本プロレスの現役レスラーだった頃、新日本プロレスの他にジャイアント馬場の全日本プロレス、ラッシャー木村の国際プロレスがあったという3団体時代だった。
このうち、経営が苦しかったのは、スター・レスラーのいない国際プロレス。そこで、新日本プロレスと国際プロレスが提携した。今でいう交流戦を行ったのである。
このとき、新日本プロレスから国際プロレスに乗り込んだのは山本小鉄&星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズ。当時の新日本プロレスにはアントニオ猪木、坂口征二、ストロング小林(元:国際プロレス)の他に若手のスターとして藤波辰巳(現:辰爾)が台頭しており、ヤマハ・ブラザーズがテレ朝の『ワールドプロレスリング』に登場することは激減していた。
しかし、今回は国際プロレスのマットである。新日本プロレスとの対抗戦ということで、当然のことながら注目され、テレビの電波に乗った。
当時、国際プロレスを定期放送していたのは東京12チャンネル(現:テレビ東京)。ヤマハ・ブラザーズの対戦相手はIWA世界タッグ王者コンビのグレート草津&アニマル浜口だった。1979年1月21日、後楽園ホールでのことである。
グレート草津といえば、国際プロレス創設時代のエースだ。アニマル浜口も、国際プロレスにとって若手のホープである。一方のヤマハ・ブラザーズは、新日本プロレスでは既に居場所がない、小柄なタッグ・チームに過ぎなかった。格のうえでは、草津&浜口の方が圧倒的に上である。
ところが、試合ではヤマハ・ブラザーズが縦横無尽に暴れまわり、国際コンビを圧倒した。そして、国際プロレスにとって虎の子のタッグ・タイトル、IWA世界タッグ王座を奪い取ったのである。
もちろん、そこには当時の新日本プロレスと国際プロレスの力関係があったのだろう。国際プロレスにしても、弱小団体の悲しさからか負けブックを呑まざるを得なかった。
勝ち負けはともかく、内容で新日本プロレスが圧倒したということは、国際プロレスのメイン・エベンターが、新日本プロレスの中堅どころにも敵わないという印象をファンに与えてしまった。これは国際プロレスにとっても、大きな痛手だっただろう。
国際プロレスの吉原功代表は「やっぱり、力道山に育てられたヤツは強い」と脱帽した。その一方で、国際プロレスのエース級だったマイティ井上は「星野さんはともかく、小鉄はまともにプロレスをしようとせず、セメントでぶつかってきた」と怒り心頭だったようだが……。
他団体蔑視が激しかった山本小鉄
プロレス命だった山本小鉄、もっと言えば新日本プロレス命である。新日本プロレス以外のプロレス団体は、徹底的に排除しようとした。
国際プロレスが崩壊してからは、山本小鉄のターゲットとなったのは全日本プロレス。ジャイアント馬場嫌いのアントニオ猪木でさえ、山本小鉄によるあまりの全日本プロレス攻撃に「そう尖がるなよ」と窘めたほどだ。
日本プロレスが崩壊したとき、山本小鉄は「練習好きのレスラーが新日本プロレスに集まり、練習嫌いが全日本プロレスを設立した」と公言してはばからなかった。
ジャイアント馬場の16文キックなど何の説得力もないと批判し、ジャンボ鶴田は腹がダブついてまともに練習していないと断罪する。その割りには、肥満体型の橋本真也に関しては「橋本は、ああいう体質だから構わない」と、実に都合のいいことを言っていたが。