谷津嘉章の悲惨なデビュー戦はプロレスにとって誇りだったのか

 今から39年前の1981年6月24日、1人の大型新人が鮮烈デビューした。谷津嘉章である。
 しかし、『鮮烈』というのは少々盛り過ぎか。正確には『凄惨』と書くべきだろう。

 この日の東京・蔵前国技館で谷津はアントニオ猪木とタッグを組み、メイン・エベントでスタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦。テレビ中継も通常の金曜日『ワールドプロレスリング』ではなく、異種格闘技戦などを放送していた『水曜スペシャル』での全国生放送である。新人としては異例の超豪華な国内デビュー戦だが、『鮮烈』だったのはここまでだ。
 この頃は新日本プロレスのエース外人にのし上がっていたハンセンと、ライバルの全日本プロレスから引き抜いたブッチャーに、谷津はフルボッコにされてしまう。3本勝負だったが、1本目で大流血に追い込まれ、ハンセンのウエスタン・ラリアートでピンフォールを奪われた谷津はもう立ち上がることはできず、無残なデビュー戦となってしまった。

▼この試合が新日本プロレスでのデビュー戦だったアブドーラ・ザ・ブッチャー
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▼歴史オタク的プロレス史11~リングは戦場なり~谷津嘉章と政宗

歴史オタク的プロレス史11~リングは戦場なり~谷津嘉章と政宗


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▼記者座談会:現在の谷津嘉章にゴールデンルーキー時代の面影なし

[ファイトクラブ]記者座談会:現在の谷津嘉章にゴールデンルーキー時代の面影なし

『エリート』と『叩き上げ』では扱いが全く違うプロレス界

 新人レスラーには大きく分けて2種類ある。『エリート』と『叩き上げ』だ。『エリート』は、大相撲の幕内力士だったり、レスリングや柔道などで充分な実績を残したりしてからプロレス入りしたレスラーのことである。当然、知名度も抜群だ。
 それ以外は『叩き上げ』だが、仮に格闘技の経験があったとしても、高校の部活でやっていたとか、国体に出場した程度では『エリート』扱いされないだろう。オリンピックに出場したり、全日本選手権で優勝争いぐらいしなければ『エリート』とは呼べない。

 プロ野球で言えば、ドラフト1位指名と下位指名の関係に似ているが、プロ野球の場合キャンプの段階では一応は横一線からのスタートだ。もちろん、ドラ1の選手に注目が集まり、首脳陣も目の掛け方が違ったりするが、開幕までに上位と下位の立場が逆転することは往々にしてある。
 下位指名の選手がキャンプやオープン戦で頭角を現して開幕一軍、一方のドラ1が二軍スタートというのは珍しくない。たとえば、阪神タイガースにドラフト6位で習志野高校から入団した無名の掛布雅之は、オープン戦で大活躍して高卒の下位指名ながら開幕で一軍入りした。この年のドラ1入団で『東都のスラッガー』として中央大から鳴り物入りで入団した佐野仙好を、掛布はアッサリ抜き去りサードのポジション争いに勝って、甲子園のホットコーナーをずっと守ることになる。一方、サードのポジションを奪われた佐野は、外野手に転向せざるを得なかった。

 しかしプロレス界の場合、『エリート』と『叩き上げ』の差はハッキリ分かれる。『叩き上げ』のレスラーは、デビュー戦では間違いなく前座だ。それも、新人同士でない限りはまず負ける。前座レスリングを経験しながら、プロレスを覚えていくわけだ。
 一方の『エリート』は、多くの場合はまず海外修行に出される。みっちり名レスラーのコーチを受け、海外での試合を経験した後、華々しく国内デビュー。デビュー戦ではメイン・エベントやセミ・ファイナルなどテレビ中継されるような注目を浴びる試合に出場し、好勝負を演じてスターダムを駆け上がっていく。とはいえ、そんな『エリート』はほんの一握りで、『叩き上げ』の方が圧倒的に多い。

 谷津嘉章の場合、1976年のモントリオール五輪レスリング90kg級フリー・スタイルに出場し8位。1980年のモスクワ五輪では金メダル候補と言われていたが、政治的な理由のため日本はボイコット、谷津は『幻の金メダリスト』と呼ばれた。
 レスリング経験者で基礎は既にできており、しかも軽量級ではなく重量級で金メダルの実力ありということなら『エリート』として申し分ない。オリンピックを諦めた谷津は、大きな期待を背負って新日本プロレスに入団した。

 もちろん、新日も谷津を『エリート』扱いにして、入門するとすぐにニューヨーク遠征。プロレス入りして僅か2ヵ月後に、マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)でデビュー戦を行うという、破格の扱いを受けた。
 半年間WWF(現:WWE)でサーキットした後、帰国して運命の日本デビューを迎えることになる。

▼日本デビュー前、WWFでサーキットした谷津嘉章

谷津嘉章のデビュー戦はプロレスvs.アマレスの異種格闘技戦?

 アメリカから帰国した谷津は、前述のように悲惨な国内デビュー戦を行うわけだが、これは当時のプロレス事情が大いに関係しているだろう。

 この頃の新日本プロレスでは『プロレスこそ最強の格闘技』を証明するため、異種格闘技戦を積極的に行っていた。1980年のアントニオ猪木vs.ウィリー・ウィリアムスで異種格闘技戦は一旦ピリオドを打ったものの、まだまだプロレスの凄さを世間に見せ付ける必要がある。
 そこで、谷津がスケープゴートにされたという訳だ。レスリング事実上の金メダリストですら、一流プロレスラーには全く歯が立たない、と社会に知らしめたのである。プロレスとアマレスの差を見せ付け、『プロレスは八百長』という世間の声に反発するために、谷津が犠牲になった。

 もう一つの理由として、当時のプロレス界における企業間競争が挙げられる。この頃、日本のプロレス団体は男子では3つしかなかった。新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスである。
 このうち、新日と全日が激しく争っており、新日によるブッチャーの引き抜きもその一環だった。両団体による企業戦争の煽りを受けて、国プロはこの年に崩壊している。

 普通だったら、他団体との競争が激しいからこそ、次期エース候補は大事に育てるだろう。しかし新日では、全日との差をハッキリ見せ付けるために敢えて金の卵を潰したのだ。
 谷津と同様に、レスリングの五輪選手だった全日のジャンボ鶴田は、国内デビュー戦でムース・モロウスキーにピンフォール勝ち、さらにはデビュー時のハイライトとなったザ・ファンクス戦でジャイアント馬場とタッグを組み、3本勝負の1本とはいえテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでフォールを奪った。

 だが『過激な新日本プロレス』は、全日本プロレスとは違う。レスリングの五輪選手だろうが、アマチュアには違いない。アマがすぐに通用するほど、新日本プロレスは甘くないのだ。
 そう考えると、谷津のデビュー戦はプロレスvs.アマレスの『異種格闘技戦』と言えなくもない。

▼新人の谷津嘉章にプロの洗礼を浴びせたスタン・ハンセン

谷津嘉章がフルボッコにされて、新日信者はむしろ喜んだ!?

 期待の大型新人がボロボロにされて、普通ならファンはガッカリするところだが、当時の新日本プロレス・ファンは少々様子が違っていたようだ。むしろ、谷津がコテンパンにされたことを喜んでいたフシがある。
 谷津はアメリカから帰国したばかりで、新日育ちではない。新日の道場で厳しく鍛えられていたわけではなかったのだ。そんな谷津が、新日マットでは全く通用しなかったのは、新日本プロレスの凄さの証明と捉えたのである。実際、この試合では『ハンセン・コール』が大きかった。

 熱烈なプロレス・ファンとして知られ、WWFの常任理事まで務めたタレント議員の野末陳平氏は、自著『プロレスの裏 知りたい』(恒文社)で、次のように書いていた。世間の『プロレス=八百長』説に対する反論である。

「ブッチャーとハンセンに対し、谷津は2分と持たなかった。もし八百長で試合を進めるなら、新人レスラーに、もっともっと花を持たせてもいいわけじゃないか」

 野末氏はWWF常任理事でありながら、プロレスの真実について全く知らなかった。真実を知ったのはミスター高橋本を読んだ時だそうで、それまでプロレスを真剣勝負と思っていたのである。
 もっと正確に言えば、“プロレスが”ではなく“新日本プロレスが”真剣勝負だと信じていた。野末氏はプロレス全体のファンではなく、熱狂的な新日本プロレス信者だったのだ。

 この本では他にも、藤波辰巳(現:辰爾)の『飛龍10番勝負』にも触れ、初戦からいきなりボブ・バックランドとハルク・ホーガンに連敗したことを『プロレスは八百長ではない証拠』として挙げていた。八百長だったら、スターの藤波を連敗させるわけがない、という理屈である。
 野末氏の周りには藤波vs.ホーガンに関し、こんなことを言うファンがいたそうだ。

「実力通りだ。藤波はまだホーガンには勝てない。カラダの差なんだ。ヘンに藤波を勝たせる細工をやったら、ミエミエで試合がつまらなくなっただろう。負けてスッキリした。新日本プロレスらしい過激ないきかたで、よろしい」

 ちょっと考えると、ジュニア・ヘビー級からヘビー級に転向したばかりの藤波に負ければ、ホーガンの商品価値が下がることぐらい判りそうなものだが、当時の新日信者はそう思わない。
 野末氏も、当然のことながら、この新日信者に同意した。

「昔だったら、ムリして藤波辰巳を勝たせたかも知れないし、もう一つの団体(筆者注:全日本プロレスのこと)なら、当然負けさせはしない。人気レスラーに傷が付くとの配慮でチャチな結末をつけるだろう。こうなったら八百長である」

 早い話が野末氏は、新日本プロレスは真剣勝負で全日本プロレスは八百長と言いたかったようだ。この本が出版された時には、国際プロレスは既に消滅していたが、国プロも八百長という範疇だっただろう。谷津と藤波の件以外でも、この本では概ねこのような論調が展開されていた。
 たとえば、全日に移籍したタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンがジャイアント馬場と好勝負を演じているのは、2人が馬場の実力に合わせて手を抜いているのであり、馬場にゴマをするシンやハンセンの営業姿勢はプロレスを三流のショーにしている、とまで書いている。断っておくが、これを言っているのは学生ファンではなく、レッキとした大人の国会議員だ。
 つまり、新日本プロレス賛美、他団体蔑視の思想である。当時は、こういう新日信者が多かったのだ。

 その意味では、アントニオ猪木による『谷津つぶし』は成功したと言えるかも知れない。しかし、谷津の悲惨なデビュー戦が話題になったのはプロレス・ファンの間のみで、残念ながら一般社会にはほとんど知られなかった。猪木にすれば、もっと世間にアピールしたかっただろう。
 谷津がモスクワ五輪でメダルを獲っていれば、一般的にも谷津のKO負けは話題になったに違いない。そう考えれば、モスクワ五輪の日本ボイコットは痛恨だった。
 とはいえ、もし谷津がメダリストになっていれば、谷津の凄惨なデビュー戦を演出できたかどうか疑問だ。いくら猪木といえども、五輪メダリストを潰す度胸があっただろうか。

▼谷津嘉章が五輪メダリストでも、アントニオ猪木は凄惨デビュー戦を演出したか?

国際プロレスの方が新日本プロレスよりも過激か

 新日本プロレスの過激さを現すエピソードとして、よく旗揚げ戦が挙げられる。1972年3月6日、東京・大田区体育館での旗揚げ戦でアントニオ猪木は、師匠のカール・ゴッチにピンフォール負けを喫した。従来のプロレスなら、団体のエースが旗揚げ戦でフォール負けするなど有り得ない、と思われていたのだ。だからこそ新日は真剣勝負、という論理である。

 だが、その理屈だと国際プロレスも真剣勝負となるだろう。正確な旗揚げ戦ではないが、TBSが定期放送を始めるにあたって国際プロレスはTBSプロレスと改称、1968年1月3日に東京・日大講堂(旧:両国国技館)で第1戦が行われた。正月早々の生放送、TBSプロレスの新エースと目されたグレート草津と、“20世紀最強の鉄人”ルー・テーズとの一戦である。
 しかし、3本勝負の1本目で草津はテーズの必殺バックドロップにより失神(したとされる)。2本目は試合放棄という醜態をお茶の間に晒してしまった。この一戦が草津のみならず、国際プロレスの命運を決めてしまったと言われる試合である。

 草津は格闘技経験こそなかったものの、ラグビー元日本代表で知名度があり『エリート』の部類だろう。またテーズ戦がプロレスのデビュー戦ではなかったとはいえ、TBSプロレスとしてはデビュー戦。当時の草津は、後の猪木と谷津を合わせたような扱いだったわけだ。そして、新エースとして敗れ、しかも凄惨な結末という、猪木と谷津を合わせたような結果に終わっている。
 猪木vs.ゴッチは名勝負と言われたが、草津はテーズに何もさせてもらえなかった。以降の草津はもはやエースとして扱われず、国プロもジャイアント馬場やアントニオ猪木のような絶対的エースを育てられずに不人気団体として終えている。そして、新エースが悲惨な負け方をしても、国プロが『過激なプロレス』と呼ばれたことはない。

▼国際プロレスを支えたグレート草津、豊登道春、サンダー杉山

 そもそも新日本プロレスだって、谷津と同じくレスリングの五輪選手だった長州力はデビュー戦で外国人相手にサソリ固めでギブアップ勝ちしたし、時代は下るが元横綱の北尾光司に至っては東京ドームでのデビュー戦でクラッシャー・バンバン・ビガロにフォール勝ちという破格の扱いを受けた。初来日の頃のビガロは新日の主力クラスを総ナメにしたのだから、新日レスラーは北尾以下かと思ったものだ。もっとも、ド素人の北尾を相手にプロレスを成立させたビガロの評価は高かったのだが。

 それはともかく、新日だって『エリート』に対しては、それなりの扱いはキチンとしていたのだ。そう考えれば、谷津の場合はタイミングが悪かったと同情せざるを得ない。
 結局、谷津はエースにもなれず、団体を転々と移籍する渡り鳥人生を歩むことになった。そして現在は糖尿病を患い、右足切断を余儀なくされている。

 また、他団体を攻撃していた新日本プロレスも、UWFブームのときには攻撃される側となった。そのUWFも短命で終わっている。他団体蔑視とは、いずれはブーメランのように自分の元に戻って来るということか。


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