歴史オタク的プロレス史11~リングは戦場なり~谷津嘉章と政宗

こんにちわ。歴史オタク、みかめゆきよみです。
今回は谷津嘉章についてつらつらと書いてみようと思います。
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この方、経歴を見るとすばらしいのでございます。
まずは1976年、モントリオールオリンピックに若干19歳で出場されております。
ここでは8位止まりでしたが、まだ若干19歳であったので
4年後ががぜん期待されておりました…が…!
なんと、4年後のモスクワオリンピック、日本はまさかの不参加!!
折りしも冷戦の真っ只中だったのでございます。
日本だけでなく、多くの国が出場をボイコットしたのですが、
この年に選手生命をかけていたアスリート達にとってみれば
不遇な事態であったに違いありません。
谷津選手も例外ではなかった様です。
実質8年のブランク。
それにめげず谷津選手は新日本プロレスリングに入団し、
華々しいデビュー戦を行うのでございます。
その後長州力の「維新軍」に入り、若侍、荒武者などと呼ばれる
荒々しい戦いっぷりを見せる様になる谷津選手。
”レスリングのエリート”として優遇されてたわりに、荒々しいファイトや、
「津谷章嘉」というリングネームでヒールとしてリングに上がる等、
「傾いた」パフォーマンスを垣間見せる選手となります。
それら傾いた行動の根底には、実力があるのに時代が合わなかった悲しみ、
オリンピックという華々しい舞台で金メダルも夢ではなかった男が、その夢をあきらめ、
プロレスの世界で雌伏せねばならない不遇に対する
抗いの意思があったのではないかと憶測してしまいます。
もちろん、プロレスの世界があったからこそ、
オリンピック出場断念=引退にはならなかったわけですが。
そういえば、戦国時代にもそんな武将がおりましたね。
あと10年早く生まれていれば天下も狙えた器の武将…
そう、奥州筆頭、伊達政宗でございます。
政宗もまた、実力はあるのに覇権争いに名乗りを挙げるタイミングが遅かった御仁でございます。
18歳で伊達家の家督を継いだ頃には、既に豊臣の天下が目の前に迫っていたのでございます。
時代が合わなかった不遇の中で、それでも伊達政宗はめげませんでした。
豊臣秀吉の奥州仕置きで対立こそすれ、戦にはならず、
最終的には小田原の豊臣軍に参陣し伊達家存続の道を選んだのでございます。
その後も徳川家康と関係を結び、戦国時代の終止符である大阪の役では
真田幸村の部隊とぶつかり武功をあげます。
そして初代仙台藩主として長く伊達家を存続させるのでございます。
政宗はきっかけさえ掴めれば自分が天下を…と思っていたに違いありませぬ。
その気性が表に出てよからぬ嫌疑をかけられぬ様、伏竜として豊臣、
そして徳川に従わなければならない、
その悔しさややりきれなさを思うと、時代とは残酷なものであるなぁと
しみじみと感じるのでございます。
谷津選手も政宗の様に、胸の中にくすぶり続ける炎を抱えていたのではないでしょうか?
そんな谷津選手は2000年に入ってからもPRIDEなどに果敢に挑みます。
政宗との違いは活躍の場がプロレスに限ってないところでしょうか?
「プロレスから一線を退く」と発言をしている谷津選手ですが、
あらゆる方面で、もう一波乱起こしてくれそうな予感がいたします。

山口敏太郎事務所 みかめゆきよみ