梅雨入り前の6月初旬、3年連続で節目を迎えた『天龍革命』

 6月と言えばジューン・ブライド、即ち結婚の季節である。
 今から33年前の1987年6月、プロレス界でも“カップル”が誕生した。天龍源一郎と阿修羅・原、いわゆる『龍原砲』のことだ。この龍原砲から『天龍同盟』が生まれて『天龍革命』を起こし、ジャンボ鶴田ら全日本プロレスの正規軍と敵対することになる。

 龍原砲の結成以来、天龍同盟は梅雨入り前の6月初旬ごとに節目を迎えることになった。そして天龍革命は、当時の時代背景が生んだとも言えるのだ。龍原砲が生まれた頃、プロレス界も梅雨入り前だったのである。


YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=IiMVeoSPGuk

▼龍原砲の精神に通ずる、ラグビー日本代表の快進撃

龍原砲の精神に通ずる、ラグビー日本代表の快進撃


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▼伝説のヒットマン、阿修羅・原の原点! 龍原砲結成の秘話

[ファイトクラブ]伝説のヒットマン、阿修羅・原の原点! 龍原砲結成の秘話

全日本プロレスの活性化を目指し、龍原砲を結成!

 天龍源一郎は大相撲の前頭筆頭から全日本プロレスへ、阿修羅・原はラグビー日本代表から国際プロレス入りした。が、国プロは倒産し、原は全日に入団する。1981年10月のことだった。
 全日に来た原はいきなり天龍とシングル・マッチを行うが、この年の暮れには世界最強タッグ決定リーグ戦に天龍とコンビを組んで出場している。記念すべき龍原砲の第一歩だが、まだこの時点では『龍原砲』というコンビ名は付いていなかった。

 1984年4月11日の大分県立荷揚町体育館、原は天龍の持つUNヘビー級王座に挑戦するも引き分け。この試合が、後の龍原砲に繋がる。
 だが、同年10月に原は突如として失踪。全日本プロレスのリングから阿修羅・原は消えた。

 原が全日マットに戻って来るのは1985年4月3日である。この頃、新日本プロレスを離脱した長州力がジャパン・プロレスを結成して全日のリングに乗り込んできたが、その長州を原が襲撃したのだ。
 4月24日には原と天龍が再びタッグを組んで長州力&アニマル浜口と対戦するも、試合中に原が天龍を襲い、たった1日でコンビは解消。その後の原は、元国際プロレスのラッシャー木村らとタッグを組むも、全日の中では中途半端な存在となっていった。

 1987年3月を最後に長州は全日本プロレスを離脱、やがて新日本プロレスにUターンする。ぬるま湯体質と言われていた全日マットでは、新日から長州らが来襲したことで緊張感が走っていたが、長州が抜けるとまた元のぬるま湯に戻ってしまう。
 そんな危機感を持っていた天龍に、原が敏感に察知した。原にとって、大分での天龍とのUN戦が忘れられない。ラグビー時代、現在と違って世界の列強には全く歯が立たなかった日本代表が、ラグビーの母国イングランドに対して3-6と敗れたものの大接戦を演じた。その試合には原も出場しており、天龍とのUN戦はあのイングランド戦に匹敵する試合だったと原は感じていたのだ。
 そして、天龍とはタッグを組みながらお互いに切磋琢磨していこうと誓い合ったのである。

 同年6月6日、天龍源一郎&阿修羅・原は、輪島大士&大熊元司と対戦、龍原砲として緒戦を飾った。2日前の6月4日、天龍は龍原砲の結成に際し、こう宣言している。
「ジャンボと輪島を本気にさせ、全日マットを活性化させる。最終目標は、俺と阿修羅で新日マットに上がることだ!」
 当時はまだ、ジャイアント馬場が全日本プロレスで絶対的な権力を握っていた頃。そんなときに『新日マットに上がりたい』とは、なかなか言えたものではない。

龍原砲から天龍同盟へ、走り始めたレボリューション

 龍原砲の第一目標は、『呑気な天才』ジャンボ鶴田と、プロレスに対して本気になれない元横綱の輪島を目覚めさせることだ。そのため、龍原砲は鶴田と輪島を容赦なくいたぶるようになる。
 もう一つの目標は、後楽園ホールを満杯にする事だった。日本武道館だの、大阪城ホールだのといった大会場の前に、まずは常打ち会場の後楽園ホールに客を入れること。
 さらに、地方巡業も重視した。テレビ中継もない地方の小さな会場では、レスラーは手を抜きがちだが、そんな注目度の低い試合でも龍原砲は全力ファイトしたのである。「テレビはあくまでも予告編。テレビを観て面白いと思ったら、実際に会場へ足を運んでくれ。会場での生観戦が面白かったら、次は友達を連れて観に来てくれ」というのが龍原砲の思いだった。

 龍原砲のターゲットは、日本人レスラーだけではなく外国人レスラーにも向けられた。1988年3月5日の秋田市体育館で龍原砲はスタン・ハンセン&テリー・ゴディと闘い、サンドイッチ・ラリアットやサンドイッチ延髄斬りでハンセンを失神に追い込んでいる。
 ハンセンの失神も衝撃的なら、起き上がった後のハンセンの暴れっぷりも今や伝説だ。

 龍原砲にも川田利明やサムソン冬木(冬木弘道)らの仲間が加わり、天龍同盟として進み出した。そして龍原砲結成からちょうど1周年、1988年6月4日に龍原砲はジャンボ鶴田&谷津嘉章の『五輪コンビ』の挑戦を受けた。PWF世界タッグ選手権である。
 しかし、原が谷津のジャーマン・スープレックス・ホールドによりピンフォール負け。龍原砲はタイトルを失ってしまう。
 ところが、控室に戻った天龍は「今日の負けは、なんら恥じることはない!」と言って、天龍同盟が全員で笑顔での記念撮影となった。試合に負けた後は、椅子の一つでも蹴っ飛ばすのがレスラーのパフォーマンスだが、笑顔の記念撮影というのも珍しい。天龍同盟にとって、ヘタなパフォーマンスよりも試合内容の方が大事だったのだ。

 だが、その年の暮れに事件は起きる。世界最強タッグ決定リーグ戦に、当然のことながら龍原砲で出場する予定だったが、開幕直前に原が解雇されてしまったのだ。原の借金問題が解雇の理由だった。
 突然、恋女房を失った天龍。リーグ戦にはまだ若手だった川田利明をパートナーとして参加したが、当時の川田では天龍と実力が釣り合わなかったのである。

▼借金問題により、全日本プロレスを解雇された阿修羅・原

ジャンボ鶴田を本気にさせ『ジャンボ越え』を果たした天龍源一郎

 原を失った天龍だったが、天龍革命が終わったわけではなかった。天龍にとって大きな目標だったのが、ジャンボ越えである。
 全日本プロレスに入団して以来、天龍は常に鶴田の背中を見ていた。年齢では天龍の方が1つ年上だが、天龍は長男坊の鶴田に対する次男坊という扱いだったのである。

 龍原砲発足後、天龍は鶴田に対してエゲツないほどの攻撃を繰り返し、ようやく『眠れる獅子』の鶴田が目を覚ました。そしてシングルでの『鶴龍対決』は一層、熱を帯びるようになったのだ。もはや後楽園ホールどころか、日本武道館を満員にするドル箱カードとなったのである。
 そんな中、1989年4月20日の大阪府立体育会館、鶴田の保持する三冠ヘビー級タイトルに挑戦した天龍は、自分の得意技であるパワーボムを鶴田に仕掛けられて、失神フォール負けを喫した。この試合で首を負傷した天龍は欠場を余儀なくされる。

 龍原砲結成から2年後の同年6月5日、梅雨入り前の日本武道館。天龍は再び鶴田の三冠に挑戦した。鶴田は天龍を負傷欠場に追い込んだことを気にしていたが、ゴング早々の天龍によるジャーマン・スープレックスで鶴田も吹っ切れた。遠慮なく、負傷した天龍の首を攻撃してくる。
 しかし天龍は、パワーボム2連発で遂に鶴田から初めてシングルでピンフォールを奪った。そこに原はいなかったが、それまで敵対していたスタン・ハンセンがリングに上がり、天龍を祝福する。これをキッカケに『龍艦砲』が誕生した。
 鶴龍対決が、藤波辰巳vs.長州力の『名勝負数え歌』と違うところは、スケールの大きさだろう。藤波vs.長州は名勝負だったとはいえ小さな体の日本人対決だったのに対し、鶴龍対決は日本人離れしたスーパー・ヘビー級同士の激突だったのだ。

▼天龍源一郎にとって、ジャンボ鶴田は高い壁だった
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 鶴田を倒し、鶴龍対決の異常人気により武道館は超満員、原を失ったものの天龍にとってレボリューションは達成しつつあるように思われた。
 しかし実際には、もっと大きな敵が潜んでいたのである。

『従来のプロレス』にとって最大の敵、バブル景気とUWF

 プロレスは『不況に強い』とよく言われる。世の中が不景気になった時、不安を抱えた人々はプロレスを見てスカッとする、という訳だ。またプロレスは、あまり金をかけずに楽しめる娯楽でもある。
 だが、裏を返せば『プロレスは好況に弱い』とも言えるのだ。龍原砲が結成された1987年6月というのは、まさしくバブル景気の真っ只中に突入した頃だったのである。そしてプロレス界は、大雨が続く梅雨に入ろうとしていたのだ。

 龍原砲を結成して約1年後、1988年4月から、それまで日本テレビで土曜午後7時から放送していた『全日本プロレス中継』がゴールデン・タイムを撤退、日曜午後10時半からの放送となった。時を同じくして、新日本プロレスをテレビ朝日で放送していた『ワールドプロレスリング』もゴールデンから撤退している。
 上昇する天龍人気とは反比例して、プロレス人気は下降していたのだ。鶴龍対決の名勝負も、ゴールデン・タイムで見ることはできず、世間には浸透しなかったのである。

 この頃の若者たちはディスコで踊りまくり、夏は海へ、冬はスキーに行って恋人同伴で楽しむ。テレビではトレンディ・ドラマが大流行り、恋人のいない者は罪悪視されていたものだ。
 独りで、あるいは男同士で観に行くプロレスなんて、ダサい対象でしかなかったのである。

 そんな中で、たった一つだけ『ダサくなくてカッコいい』プロレスがあった。それがUWFだ。

 全日本プロレスのライバルは新日本プロレスだが、この頃は違った。全日にとって、そして天龍にとっての敵は新日ではなく、好景気に沸く世間であり、UWFである。
 UWFのエースだった前田日明は、第一次UWFに失敗して新日本プロレスに出戻ったが、その後に第二次UWFを旗揚げしたキッカケになったのが天龍革命だったことはよく知られる話だ。
 天龍が輪島の顔面を容赦なく蹴り上げるのを見た前田が「新日は過激なプロレスと言われるが、天龍さんの方がよっぽど過激だ。このままではUWFの価値が半減してしまう」と危機感を持ち、長州の顔面を蹴って新日を解雇されている。そして第二次UWFを結成した。

▼天龍源一郎のファイトに危機感を抱き、第二次UWFを結成した前田日明

見えざる敵・世間やUWFと闘った天龍革命

 第二次UWFは社会現象になっていく。ニュース番組や情報番組でUWFが取り上げられ、テレビ中継がないことを逆手に取り、大都市での月1回だけの興行でファンに飢餓感を与え、会場は常に満員。前売り券は飛ぶように売れ、試合ビデオも収入の大きな柱となった。
 月1回の試合が、UWFに真剣勝負幻想をもたらす。従来のプロレスが毎日のように試合ができるのはショーだからで、UWFは真剣勝負のため月1回しか試合ができないと思われていたのだ。

 バブル景気の中、プロレス界でUWFが独り勝ちしていたのは、要するに世間から『UWFはプロレスではない』と見られていたのだろう。プロレス嫌いですら、UWFだけは見るという者さえいた。
 また、流行りものに若者は弱い。彼女をプロレスに誘うのはためらわれるが、UWFなら喜んで付いて来てくれる。「テレビで観るプロレス(つまり全日本プロレスや新日本プロレス)とは全然ちが~う」などと言って彼女は喜び、流行の最先端をカップルで楽しんでいた。

 もちろん、天龍を含め全日や新日のレスラーたちは、UWFはスタイルが違うだけで、真剣勝負ではないプロレスであることを知っていた。それだけに、UWF人気に納得がいかなかったのである。
 月1回しか試合をしないので真剣勝負と見られ、大ブームを巻き起こし会場は超満員。言い方は悪いが楽して大儲け(企業努力や選手の努力は別)、濡れ手で粟と他団体の選手は思っていた。

 そこで天龍は、UWFとは逆の手法を取る。UWFが月イチの試合で却ってもてはやされるのなら、天龍同盟は体が壊れるようなファイトを毎日やって、プロレスの凄さを見せ付けようじゃないか、と。地方のノーTVだろうが手を抜かず、20分以上もの試合を毎日のようにやり抜いた。天龍同盟と闘う全日正規軍のレスラーたちにとっては、いい迷惑だっただろうが……。

 1989年11月29日の札幌中島体育センター、世界最強タッグ決定リーグ戦で天龍源一郎&スタン・ハンセンの『龍艦砲』は、ジャイアント馬場&ラッシャー木村の『義兄弟コンビ』と対戦、天龍が日本人として初めて馬場からピンフォールを奪った(馬場の若手時代を除く)。
「この1勝は東京ドームよりも重い!」と天龍は言い放つ。ちょうどこの日、UWFが東京ドームに進出し『U-COSMOS』を開催していた。6万人(主催者発表)を集めたという興行、実際は完売には程遠く招待券がバラまかれたというが、UWFを象徴する大会だったのだ。つまりこの日、天龍はUWFと闘っていたのである。U-COSMOSのスポンサーがメガネスーパーで、半年後にメガネスーパーが興した新団体のSWSに天龍がエースとして入団するというのも、皮肉な巡り合わせだが。

 しかし、大ブームを巻き起こした第二次UWFも流行り廃りには勝てず、内部分裂もあって、バブル崩壊を待たずに1990年12月、UWFは崩壊。UWFは三派(後に四派)に分かれる。
 逆にプロレス人気は復活したが、定期放送が地上波ゴールデンに戻ることは二度となかった。

 まもなく梅雨に入ろうという6月の初旬、1987年から89年の間に、天龍同盟は同じ時期に節目を迎えている。龍原砲結成に、負けても笑顔での記念撮影、そしてジャンボ越え。
 1990年4月末を最後に天龍は全日本プロレスを離脱、同年5月10日に新団体のSWSへ移籍した。
 天龍源一郎と阿修羅・原がタッグを組み、龍原砲が誕生してから3年後のことだった。


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