龍原砲の精神に通ずる、ラグビー日本代表の快進撃

 10月20日(日)、ラグビー・ワールドカップ決勝トーナメントの準々決勝の日本vs.南アフリカ(スプリングボクス)が東京スタジアムで行われ、日本は3-26で完敗し、姿を消した。しかし、日本代表にとって初のベスト8、しかも優勝候補のスプリングボクスに対して前半は3-5と大健闘したのだから、大いに称賛されるべきだろう。平均視聴率も41.6%を記録し(関東地区)、日本中にラグビー・フィーバーが吹き荒れた。
 4年前、ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜たち=日本代表の愛称)は、イングランドでのW杯で優勝候補のスプリングボクスを破り、世界を驚愕させた。ラグビー弱小国の日本が南アフリカを破ることなど、誰も想像していなかったのだ。そのため、この試合は『ブライトンの奇跡』と呼ばれている。
 スプリングボクスの選手たちは、このときの屈辱を忘れてなかった。そして、本気でブレイブ・ブロッサムズを叩き潰しに来た。その結果、敵地でこれ以上ない形でリベンジを果たしたのである。

 筆者は恥ずかしながら、試合が終わった後に大泣きしてしまった。成人してからこれほど泣いたのは、おそらく初めてだろう。素晴らしい闘いを見せてくれたブレイブ・ブロッサムズとスプリングボクス、そしてラグビーそのものに『ありがとう』と言いたい。
 スプリングボクスを本気にさせたブレイブ・ブロッサムズ、そして本気になったスプリングボクス、これぞワールドカップと呼べる試合だった。

 ブレイブ・ブロッサムズの選手たちも、負けた瞬間に泣いていた。筆者が泣いたのは、そのときではない。そのあとの光景が感動的だったのである。

▼日本代表とマオリ・オールブラックス(ニュージーランド)の試合後


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▼[ファイトクラブ]伝説のヒットマン、阿修羅・原の原点! 龍原砲結成の秘話

[ファイトクラブ]伝説のヒットマン、阿修羅・原の原点! 龍原砲結成の秘話

「今日の負けは、なんら恥じることはない!」龍原砲は胸を張った

 それまで泣いていたブレイブ・ブロッサムズの選手たちも、しばらく経つと自分の子供をスタンドからピッチに迎え入れ、チーム全員で笑顔での記念撮影をしたのである。負けて悔しいはずなのに、この光景に筆者は思わず涙を流してしまった。
 試合後の記者会見でリーチ マイケル主将は、
「下を向く必要はない。胸を張って、選手一人ひとりも誇りに思うべき」
と語った。

 こういう場面を、どこかで見たような気がする。そうだ、龍原砲が負けた直後のことだった。

 1988年、札幌中島体育センターで、天龍源一郎&阿修羅・原の『龍原砲』と、ジャンボ鶴田&谷津嘉章の『五輪コンビ』がPWF世界タッグ選手権を行い、谷津のジャーマン・スープレックス・ホールドによって原をピンフォール、五輪コンビが新王者チームとなった。

 普通、負けたレスラーはイスの一つも蹴飛ばし「こんなバカなことがあるか! 次にやったら、あいつらブッ殺してやる!!」とタンカの一つも切るところだが、天龍はそうはしなかった。

 控室に戻った天龍は、記者団に対して、
「今日の負けは、なんら恥じることはない!」
と、原を含む天龍同盟全員で笑顔の記念撮影を行ったのだ。この言葉、ブレイブ・ブロッサムズのリーチ主将に通ずるものがある。

 天龍が外様である国際プロレス出身の原とタッグを組んで、この日がちょうど1年目。『天龍革命』と呼ばれたこの行動は、ライバルである鶴田や谷津を本気にさせた。それが天龍には嬉しかったのだ。

 天龍のパートナーとなった原はラグビー出身。1971年に行われた日本代表とイングランド代表とのテストマッチで、原は左プロップとして出場。3-6で敗れたとはいえ、当時は日本がラグビー先進国のイングランドには全く歯が立たなかった時代。それだけに、日本代表は国際的な評価を得た。「頭が真っ白になって、夢中でボールを追い掛けていた唯一の試合」と原は語っている。

 原がラグビーを辞めて国際プロレスに入団、国プロ崩壊後は全日本プロレスに入団するが、原が最も心に残っていたのが、1984年の大分でのUNヘビー級選手権、天龍とのタイトルマッチだった。
「大分で源ちゃんとやったUN戦が忘れられない。あのイングランド戦と同じ感覚だった」
 原にとってイングランド戦、そして天龍とのUN戦が、龍原砲の原点だったのだ。

▼ラグビー出身、天龍源一郎との『龍原砲』で大人気を博した阿修羅・原


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