[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第65回 A・猪木ら日本のスター選手に対する米マットの本当の評価(当時)は・・・

[週刊ファイト2月27日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第65回
 A・猪木ら日本のスター選手に対する米マットの本当の評価(当時)は・・・
・100人を超える日本人レスラーが米マットに上がっている
・米マットは甘くなかったのである
・日本の団体から米プロモーターに“お願い”をしていた
・日本人ベビーフェイスの使い道がなかった


1978年3月20日MSGでの藤波辰巳WWWFジュニア王座防衛ジプシー・ロドリゲス戦
▼藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』

藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』

 68年前の1952年、力道山と遠藤幸吉が修行目的でアメリカ西海岸地区をサーキットしてから今日まで100人を超える日本人レスラーが米マットに上がっている。だが、その中で本当に大ブレークしたのは60年代前半のジャイアント馬場らほんのひと握り。では、日本でスターダムにのし上がってからのアントニオ猪木、藤波辰爾、ジャンボ鶴田らに対する米マットの評価、現地人気はどうだったのか?

 ファイト内容以上にTVインタビューでのおしゃべりが評価の対象となる60~90年代の米マットにおいて、片言の英語しか話せない日本人レスラーがスターダムにのし上がることは至難の業だった。

 で、そういうハンディを抱えながら当時、トップレスラーの仲間入りを果たしたのがジャイアント馬場、キラー・カーン、マサ斉藤、グレート・ムタ(武藤敬司)の4人。ただし、G・馬場の60年代前半の超売れっ子ぶりを大ブレークとするなら、G・ムタ=中ブレーク、K・カーン、M・斉藤=小ブレークという評価になる。さらに、記者によっては見解は違ってくるだろうが、ザ・グレート・カブキ、グレート小鹿、ケンドー・ナガサキ、タイガー戸口はK・カーン、M・斉藤よりもワンランク下。海外武者修行後に日本で売り出された大仁田厚、橋本真也、蝶野正洋の扱われ方に至っては前座に等しかった。ヒールの日本人というキャラだけでメインに起用されるほど米マットは甘くなかったのである。

 ペインティングを施したG・ムタはともかく、馬場、カーン、斉藤は風ボウと体格に恵まれた。日本人レスラーにこの2つは極めて重要である。ジャンボ鶴田が「K・カーンは顔で得をした」と言ったことにカーンは今でも怒っているが、事実だから仕方ない。

 逆を言えば、普通の東洋人の顔立ちをした鶴田が米マットでオーソドックスな試合を披露してもファン受けするはずがなかった。


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