阿修羅・原がラガーマンとして光り輝いていた頃

 9月20日(金)、第9回ラグビー・ワールドカップが開幕する。ラグビーW杯は夏季オリンピック、サッカー・ワールドカップに次ぐ、世界第3位とも言われる規模を誇るスポーツ・イベントだ。前回の2015年のイングランド大会では、日本代表が優勝候補の南アフリカ(スプリングボクス)から大金星を挙げて、世界中を驚かせたのは記憶に新しいところ。
 そんなビッグ・イベントが、日本で初めて開催される。こんな機会はもう二度とないかも知れない。

 そこで、せっかくの日本開催なので、ラグビー出身のプロレスラーを紹介しながら、本誌読者にもラグビーについて触れてもらいたいと思う。最初のレスラーは、ラグビー出身の第一人者である阿修羅・原だ。


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▼[ファイトクラブ]伝説のヒットマン、阿修羅・原の原点! 龍原砲結成の秘話

[ファイトクラブ]伝説のヒットマン、阿修羅・原の原点! 龍原砲結成の秘話

原進が軽量FWを引っ張り、イングランドの大男たちが青ざめる

 阿修羅・原の本名は原進。1947年1月8日、長崎県に生まれた原は子供の頃から頑丈な体格で、相撲では負け知らずだった。しかし諫早農業高校に進学したとき、体育の授業でラグビーに巡り合い、その魅力に取り付かれてラグビー部に入部する。
 その後は東洋大学に進学、卒業後はラグビーの名門である近鉄(現:近鉄ライナーズ)に入社して頭角を現し、日本代表にも選ばれた。

 1971年9月28日、東京・秩父宮ラグビー場で行われたイングランドとのテストマッチ。それまで原のポジションはフォワード(FW)最後方のナンバーエイト(№8)だったが、日本代表の監督だった大西鐵之祐からFW最前列の左プロップ(PR)への転向を命じられている。ちなみに大西監督と言えば、凄惨な結果に終わった力道山vs.木村政彦を「ショーでもスポーツでもなく、野獣の闘争だった」と痛烈に批判した人物だ。

 左プロップ(PR、背番号1)はフッカー(HO、背番号2)と右プロップ(PR、背番号3)と共にスクラム第一列(フロント・ロー)を形成する。つまりPRには左右あるのだが、原は1番の左PRで、相手の第一列に首を挟まれていないためルースヘッド・プロップと呼ばれる。3番の右PRは相手の第一列に首を挟まれるためタイトヘッド・プロップと呼ぶわけだ。
 スクラムは、FW平均体重が100kgだとすると、味方8人、相手8人の計1.6tが組み合い、その1.6tが第一列の首にのしかかる。そのため、充分な訓練を積んでいない選手は非常に危険なので、第一列になることはルールで認められていない。

▼スクラム体験をする真壁刀義(2分25秒頃から)。真壁のポジションは第一列の2番フッカー

 当時、イングランド代表のFW平均体重は日本代表よりも約14kgも重かった。日本代表にとって、ほぼ絶望的な体重差である。
 しかし原は、この試合でのファースト・スクラムでイングランドの重量FWをグイっと押し込んだ。日本の軽量FWの頑張りに、全員の闘志に火が点く。
 ラグビーの母国イングランドを相手に、日本代表は思わぬ大健闘。終わってみれば双方ノートライ、3-6の敗戦だが、イングランドの大男を青ざめさせた一戦だった。
 本国のイギリスでもこの試合が大々的に報じられ「イングランドが勝てたのはラッキーだった」と日本代表を称賛していた。まだ日本代表が、世界の一流国に勝ったことがない頃の話である。

 原はこの一戦に関して「あの試合で燃え尽きた。あとは惰性でラグビーをやっていたようなものだ」と振り返った。その5年後、1976年に原は日本人として初めて世界選抜に選ばれる。しかし、この頃の原の両膝はガタガタで、既に限界を迎えていた。

▼イングランド戦でスクラムに挑む背番号1の阿修羅・原(青丸)

YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=TJYas6DsQig&list=PLCgObGMsQu7wklcvU_SmCU4Rias29IluV

龍原砲の原点となった、イングランドとのテストマッチ

 世界選抜の遠征から帰ってくると、原はラグビーからの引退を発表。そして近鉄も退社した。
 1年後の1977年11月29日、原は国際プロレスに入団する。ラガーマンからプロレスラーへ、30歳10ヵ月での転向である。リング・ネームはラグビー・ファンの野坂昭如により、阿修羅・原と命名された。

 しかし、国際プロレスは4年後の1981年に崩壊、阿修羅・原は全日本プロレスに入団した。ここで阿修羅・原は運命の男・天龍源一郎に出会う。
 龍原砲を組む前の1984年4月11日、大分県立荷揚町体育館で阿修羅・原は天龍が保持するUNヘビー級タイトルに挑戦した。タイトル・マッチにもかかわらず、地方での興行ということで客もまばら。しかし2人は、無心になって闘った。結果は両者リングアウト、天龍が王座を防衛したが、結果は関係ない。2人の心が通じ合った一戦となった。

 龍原砲を組む直前、阿修羅・原は、
「大分での源ちゃんとの試合が忘れられない。ラグビーではたった1試合だけ、無心になってボールを追い掛けたことがあった。それに近い感覚だったのが、大分でのUN戦だったんだよ」
と天龍に語った。そして2人はタッグを組むことになる。

『無心になってボールを追い掛けた』試合というのは、あのイングランド戦のことだ。つまり龍原砲、そして天龍同盟“レボリューション”の原点は、イングランドとのテストマッチにあったのである。

▼天龍源一郎にとっても、大分での阿修羅・原とのUN戦は心に残っている

ラグビーのポジションについて

 ここからはラグビーW杯を楽しむために、基本的なことを学んでいこう。上記の阿修羅・原の記事でも触れていたが、まずはポジションから。
 よく知られているように、ラグビーは1チーム15人で行われるスポーツである(他にも、オリンピック競技になっている7人制や、ルールが全く違う13人制のラグビー・リーグという競技もある)。ポジションの内訳は以下の通りだ。

▼ラグビーのポジション図

★フォワード<FW>
①左プロップ<PR>【フロント・ロー】
②フッカー<HO>【フロント・ロー】
③右プロップ<PR>【フロント・ロー】
④左ロック<LO>【セカンド・ロー】
⑤右ロック<LO>【セカンド・ロー】
⑥左(ブラインドサイド)フランカー<FL>【バック・ロー】
⑦右(オープンサイド)フランカー<FL>【バック・ロー】
⑧ナンバー・エイト<№8>【バック・ロー】

★バックス<BK>
⑨スクラムハーフ<SH>【ハーフ・バックス】
⑩スタンドオフ<SO>【ハーフ・バックス】
⑪左ウィング<WTB>【スリークォーター・バックス】
⑫左(インサイド)センター<CTB>【スリークォーター・バックス】
⑬右(アウトサイド)センター<CTB>【スリークォーター・バックス】
⑭右ウィング<WTB>【スリークォーター・バックス】
⑮フルバック<FB>【フルバック】

※丸数字は背番号、< >内は略称、【 】内はユニット名

 ポジション図では赤色で示されている①~⑧がフォワード(FW)だ。
 FWは簡単に言うとスクラムを組む8人のことで、また密集でボールを奪い合うのも主にFWであり、体が大きくて力が強い連中が務めるポジションである。

 青色で示されている⑨~⑮がバックス(BK)で、FWが出したボールをパスで繋ぎ、持って走り、あるいはキックで地域を獲得するなど、得点に直接絡むことが多いポジションだ。
 最初のうちは、『FWはデカくてパワーのある奴』『BKは足が速くてパスやキックが上手い奴』と覚えておけばいいだろう。

 もっと細かいポジションの役割を知りたい人は、以下を読んでいただきたい。

★フォワード<FW>
【フロント・ロー】
 阿修羅・原の項でも説明したが、①左プロップ(PR)、②フッカー(HO)、③右プロップ(PR)でスクラムの第一列を組む。この3人が、スクラムの強さに大きく影響すると言ってよい。
 両PRがスクラムを押し込み、HOはスクラムをコントロールしながらマイボール・スクラムの場合はボールを後ろへ掻き出す。HOはラインアウトでのスローワー(ボールを投げ入れる人)も務めるのが普通である。

【セカンド・ロー】
 15人の中で最も大きく、パワーがあるのが④左ロック(LO)、⑤右ロック(LO)のロック陣だ。
 LOはモールやラックなどの密集状態で核になるだけではなく、ラインアウトではジャンパー(飛び上がってボールを捕る人)も務める。したがって背の高さも必要で、ワールド・クラスなら195cmは当たり前、2mを超すLOも珍しくない。

【バック・ロー】
 近年のラグビーでは⑥左(ブラインドサイド)フランカー(FL)、⑦右(オープンサイド)フランカー(FL)、ナンバーエイト(№8)のいわゆる第三列が重要だ。この3人が、FWとBKの橋渡しをし、ディフェンスの要となる。
 FLは左右ではなく、現在ではブラインドサイドとオープンサイドで分けるのが一般的で、⑥ブラインドサイドFLはロック並みの大きさ、⑦オープンサイドFLはバックス並みの走力が必要。
 №8はスクラムから出たボールを持って、そのままサイド・アタックができ、フィジカル面で最も優れたプレイヤーが務める。

▼フォワード(FW)8人で組むスクラム。阿修羅・原は最前列の左プロップ(PR)だった

★バックス<BK>
【ハーフ・バックス】
 ⑨スクラムハーフ(SH)、⑩スタンドオフ(SO)の2人をハーフ団と呼ぶ。
 SHはスクラムやラック、モールから出たボールをパスなどで展開させるのが役目。日本では小柄な選手が多く、攻撃のテンポはSHが決めると言っても過言ではない。
 SOは司令塔で、TBS系のドラマ『ノーサイド・ゲーム』では浜畑(演じているのは元日本代表の廣瀬俊朗)のポジションだ。アメリカン・フットボールで言えばクォーター・バック、野球ではキャッチャーに相当する。SOの判断により攻撃を決めるという、重要なポジションと言えよう。海外ではフライハーフ(FH)と呼ぶのが一般的。

【スリークォーター・バックス】
 攻撃ラインおよびディフェンス・ラインを形成するのが⑪左ウィング(WTB)、⑫左(インサイド)センター(CTB)、⑬右(アウトサイド)センター、⑭右ウィング(WTB)の4人。TBラインと呼ばれ、彼らによる素早いオープン攻撃が日本のお家芸だ。
 両CTBは突破役で、ライン・ブレイクを図るのはもちろん、パス・スキルやディフェンス力も重要となる。現在は左右ではなく、ポイントから近い方を⑫インサイドCTB、遠い方を⑬アウトサイドCTBで分けるのが普通。SOと両CTBを合わせてフロント・スリーと呼ぶ。
 両WTBはトライ・ゲッターで、まさしく花形ポジション。小柄でもスピードで抜いていくタイプと、FW並みの巨漢で相手タックラーをなぎ倒していくタイプがある。

【フルバック】
 最後の砦となるのが⑮フルバック(FB)だ。FBを突破されたら後ろに味方はいないので、相手のトライとなる場合が多く、また相手のキックに対してもケアしなければならない。
 攻撃面では、キックで大きく蹴り込んで陣地を獲得し、時にはライン参加してトライを奪うこともある。BKの中では体の大きな選手が多い。両WTBとFBを合わせてバック・スリーと呼ぶ。

ワールドカップ物語(第1回~第2回)

 第1回ラグビー・ワールドカップは1987年に開催された。サッカーのW杯に比べると歴史はかなり浅いが、これには訳がある。
 阿修羅・原の記事の中でテストマッチという言葉が出て来たが、これは本番に向けてのテストの試合という意味ではない。大学入試のように本番そのもの、国の代表チーム同士の真剣勝負、それがテストマッチである。テストマッチに出場することは、ラガーマンにとって最高の栄誉とされ、出場した選手にはキャップが授与される。
 アマチュアリズムを守ってきたラグビー界には『ラグビーはテストマッチが重要であり、一つの大会で優勝を決めるスポーツではない』という考え方があった。アマチュアなのだから最強国を決める必要はないだろう、というわけである。さらに『W杯を開催すればプロ化が加速する』という懸念があったのだ。
 しかしW杯開催の要望が強くなり、遂に1987年、ニュージーランドとオーストラリアで初めてラグビーW杯が開催された。それは当初の予想通り、プロ化への第一歩となったのである。

【第1回ワールドカップ】1987年:開催国=ニュージーランド、オーストラリア
 第1回大会は、地域予選は行われずに、これまでの実績から16ヵ国が招待された。ただし、当時は『幻の世界最強国』と称された南アフリカ(スプリングボクス)はアパルトヘイトのため招待されていない。
 大会は、ニュージーランド(オールブラックス)が圧倒的な力を見せ付け、決勝ではフランスに完勝し、初代世界王者となった。
 日本代表は、勝てると思われたアメリカに競り負け、イングランドには大敗、優勝候補のオーストラリア(ワラビーズ)には23-42と善戦するも、結局は3戦全敗に終わった。

【第2回ワールドカップ】1991年:開催国=イングランド他
 第2回大会は、前回大会の8強はシードされて予選免除となったが、それ以外は地域予選が行われ、W杯としての体裁が整えられて16ヵ国が出場した。しかし、この大会にも南アフリカ(スプリングボクス)は出場していない。
 準決勝では、オーストラリア(ワラビーズ)がニュージーランド(オールブラックス)を破り、王者オールブラックスが遂に陥落。決勝ではワラビーズが地元イングランドを破って、初の世界一となった。
 アジア太平洋予選を勝ち抜いて出場した日本代表は、スコットランドとアイルランドに連敗、しかしジンバブエには52-8で大勝、W杯での初勝利を挙げ、1勝2敗で大会を終えた。


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