平成三代のMVPは誰!? 独断と偏見で選出

 先週、筆者(安威川敏樹)は昭和の最後と平成元年がプロレスの転換期、即ち昭和プロレスから平成プロレスへ移行する時期と合致していると書いた。
 そこで今回は、平成の約30年を10年ごと3つに区切り、それぞれの年代のMVPを選出してみた。もちろん、これは筆者の独断と偏見によるものであり、異論もあるだろう。というよりも、異論のない方がおかしい。平成のプロレスは多様化したのだから、人によってそれぞれ見方が異なるのは当然だ。

 それに、今回のMVP選出には単なる年代の最優秀選手というだけではなく、負の遺産も含まれている。つまり、良くも悪くもその年代を代表するレスラーだということだ。それと、裏MVPとして、レスラー以外でそれぞれの年代のプロレス重要人物を選出している。


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▼[ファイトクラブ]平成プロレスとは何だったのか!? 昭和最後に昭和プロレスは消滅し、平成元年に平成プロレスが始まった!

[ファイトクラブ]平成プロレスとは何だったのか!? 昭和最後に昭和プロレスは消滅し、平成元年に平成プロレスが始まった!

平成元年~10年のMVPは高田延彦!

 平成元年~10年(1989~98年)のMVPには高田延彦を推したい。
 平成元年(1989年)当時の高田は、第二次UWFで前田日明に次ぐ№2的存在だったが、第二次UWF崩壊後の平成3年(1991年)にUWFインターナショナルを立ち上げて社長兼エースとなる。
 第二次UWFはプロレスを否定したような団体だったが、Uインターは『プロレスは最強の格闘技』をキャッチフレーズとして、UWFスタイルを維持しつつプロレスに回帰した。その絶対王者である高田は、自らを『最強』と名乗ったのである。

 これは明らかに、アントニオ猪木を絶対的エースとしていた頃の新日本プロレスをモデルとした戦略だった。平成に入ってからは、新日本プロレスは闘魂三銃士(武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋)、全日本プロレスは全日四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)という複数エース制を採用しており、誰がエースかはっきりしなかった。
 そこでUインターは『団体のエースは1人で充分』と原点回帰のプロレス団体を目指したのである。力道山の日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレスと、昭和プロレスはエースの一枚看板で、その他のレスラーは横綱(エース)を引き立てる露払いのような存在だった。

 さらにUインターは、他団体のエース5人に招待状を送って1億円トーナメントの開催を企てるなど(結局、他団体の選手は参加せず)、このあたりも馬場にしつこく挑戦し続けた猪木に通じるものがある。
 そして、プロレスの最強を示すために、猪木の代名詞だった異種格闘技戦を積極的に行った。

 こうして高田の人気はウナギ登りだったが、それと反比例してUインターの台所は火の車。平成7年(1995年)には、新日本プロレスとの対抗戦に踏み切り、高田の負けブックを呑んでしまう。10月9日の武藤敬司との一戦は、4の字固めで高田は屈辱のギブアップ負け。この試合は内容もさることながら、注目度や歴史的試合ということも加味して、平成30年間におけるベスト・バウトに選びたい。とはいえ、この敗北によって高田の人気は急落し、1年後にUインターは崩壊した。
 そして他の格闘技との試合でも平成9年(1997年)および10年(1998年)、PRIDEでヒクソン・グレイシーと闘うも2連敗。『プロレスこそ最強の格闘技』という幻想が完全に崩れたのと同時に、プロレス暗黒時代の始まりともなった。

 こうした負の面もあるが、平成一桁代のプロレス界は高田延彦を中心に動いていたと考えられるため、この年代のMVPに選出した。

【裏MVP=ターザン山本】

 平成一桁代のプロレス界は、プロレス・マスコミの時代でもあった。その核を担っていたのは、週刊プロレスの編集長だったターザン山本氏であろう。ターザン氏の絶頂期は、活字プロレスの全盛期でもあった。
 特に象徴的だったのは、平成7年(1995年)4月2日に、週プロの発行元であるベースボール・マガジン社が東京ドームで開催したプロレス・オールスター戦『夢の懸け橋』である。それをプロデュースしたのがターザン氏だった。

 この『夢の懸け橋』に異議を唱えたのが、週プロのライバル誌だった週刊ゴング(日本スポーツ出版社)である。両誌はお互いの誌上で舌戦を繰り広げた。昭和後期のプロレス界が全日本プロレスと新日本プロレスの争いだったのなら、平成一桁代は週プロとゴングの戦争だったと言える。

 その原因を作ったのがターザン山本氏で、それ以外でも氏はペンが行き過ぎたこともあってプロレス団体から何度も取材拒否を受けるなど、良くも悪くも当時のプロレス界に大きな影響を与えていた。

平成11年~20年のMVPは三沢光晴!
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 平成11年~20年(1999~2008年)のMVPは三沢光晴とした。
 平成11年(1999年)1月31日、ジャイアント馬場が死去。三沢はその跡を受け継いで全日本プロレスの社長に就任する。しかし、馬場夫人だった馬場元子氏と対立し、平成12年(2000年)に全日本を離脱、プロレスリング・ノアを設立した。

 ノアが発足し、21世紀に入ったばかりのプロレス界は冬の時代。というよりは、プロレス氷河期と言ってもよかった。
 格闘技ブームが訪れ、プロレスラーは他の格闘技との対決でことごとく敗れたために、『プロレスラーは最強』という看板は脆くも崩れ去った頃である。
 そんな中、ノアは安定経営を続けていた。そこには社長としての三沢の手腕もあったのだろう。

 ただし、選手としての三沢の全盛期は平成一桁代で、ノア時代の三沢は既にピークを過ぎていた。エースとして休むこともできず、社長業の激務に追われ、練習もろくにできなかったのである。
 そして、あの事故が起きてしまう。

 平成21年(2009年)6月13日、リング禍により三沢光晴は永眠。46歳という若さだった。
 平成一桁代、全日本プロレスでの『四天王プロレス』という激しいファイト・スタイルが三沢の肉体を蝕み、そしてノアの社長になってからの練習不足も祟ったのだろう。三沢の死は、プロレス界にとって負の遺産だ。
 三沢の死以降、プロレスの安全性が叫ばれているが、リング上での事故は後を絶たない。

 三沢を平成10年代のMVPに選んだのは、三沢の事故を決して忘れてはならないという意味も込めている。
 さらにノアも、三沢の死後はスキャンダルが噴出して運営会社が倒産、経営母体が一新された。

【裏MVP=ミスター高橋】
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 プロレス暗黒時代が始まった頃の平成13年(2001年)12月、即ち21世紀元年に1冊の本がプロレス界を震撼させた。その本とは、ミスター高橋氏が著した『流血の魔術 最強の演技(講談社)』である。
『すべてのプロレスはショーである』と銘打った同書では、プロレスは全て勝ち負けが決まっているなど、プロレスの仕組みを公開した。
 しかも、証言したのは『過激なプロレス』『プロレスは最強の格闘技』を標榜していた、アントニオ猪木がエースだった頃の新日本プロレスで、トップ・レフェリーを務めていたミスター高橋氏ということが衝撃的だったのである。『アントニオ猪木こそが最強のプロレスラーであり、世界最強の格闘家』と信じていた猪木信者のショックは計り知れなかった。
 そして、プロレス人気が落ち込んだA級戦犯とまで、ミスター高橋氏は言われたのである。

 しかし『流血の魔術 最強の演技』が出版された頃のプロレス界は既に、暗黒時代に突入していた。同書を読んでプロレス・ファンをやめた人も多いかも知れないが、仮に出版されなくてもプロレス人気は落ち込んでいただろう。
 この時点で『プロレスは真剣勝負である』と主張するのは明らかに無理があり、現在ではプロレスを真剣勝負と信じているファンはほとんどいない。平成20年代にプロレス人気が復活したのは、ファンがプロレスをショーとして割り切って楽しむようになったからだと思われる。

『流血の魔術 最強の演技』には負の遺産もあったが、やはり同書が出版されたのは歴史的必然だったのだ。

平成21年~31年のMVPはオカダ・カズチカ!

 平成21年~31年(2009~19年)のMVPにはオカダ・カズチカを挙げよう。
 プロレス界が氷河期から脱し、人気上昇したのはオカダ・カズチカの功績と言える。平成20年代に急増した『プ女子』の存在は、オカダ・カズチカの登場が大きく影響した。
 それまでは『一見さんお断り』の雰囲気が強かったプロレス会場が、ニワカの女性でも気軽に楽しむことができるようになったのである。

 金髪のヒールと言って思い出すのは、昭和プロレスでは上田馬之助だろう。タイガー・ジェット・シンと組んだ極悪コンビは、本当に恐ろしかった。
 それに対しオカダ・カズチカは、イケメンで高い身体能力を発揮する、平成プロレスの象徴となった。同じ金髪ヒールの上田馬之助とは対照的である。オカダ・カズチカがヒールにもかかわらずプロレスに明るい印象を与え、誰でも楽しめるようになった貢献度は計り知れないだろう。

 その反面、オカダ・カズチカのファイトには、昭和プロレスの悪役が持っていたおどろおどろしい、怪しげな魅力というものはない。プロレス界から上田馬之助のような本当に怖いヒールがいなくなったのは、残念なような気もする。

【裏MVP=木谷高明】

 オカダ・カズチカが東京スポーツのプロレス大賞で、初めてMVPに選ばれた平成24年(2012年)、新日本プロレスに異変が起きていた。新日本プロレスがブシロードグループの傘下に入ったのである。
 そして、新日本プロレスの取締役会長に就任したのが木谷高明氏だった。木谷氏の経営手腕は、それまでどん底状態だった新日本プロレスをV字回復させたのである。プロレス界でもようやく、一般企業では当たり前のビジネス手法が採られたのだった。

 とはいえ、かつては個人商店的だったプロレス経営も、ビジネスライクになってしまったと過去を懐かしむ声もある。非レスラー系オーナーである木谷高明氏の登場は、『昭和は遠くなりにけり』を実感させるものとなった。


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