[ファイトクラブ]平成プロレスとは何だったのか!? 昭和最後に昭和プロレスは消滅し、平成元年に平成プロレスが始まった!

[週刊ファイト5月2日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼平成プロレスとは何だったのか!? 昭和最後に昭和プロレスは消滅し、平成元年に平成プロレスが始まった!
 by 安威川敏樹
・昭和から平成に時代が変わった瞬間、歴史は動いていた!
・昭和最終年と平成元年が、プロレスにおけるビジネス・モデルの転換期
・平成の始まりにBI時代が終焉するも『鶴藤長天』は長くは続かず
・第二次UWFとFMW、対極にあるプロレス団体が多団体時代を生んだ
・大企業が資本だったSWSは、令和プロレスのモデルとなるか!?
・平成のプロレス・ファンよ、歴史の目撃者たれ!


 今年(2019年=平成31年)の5月1日、平成という時代が終わり、元号が『令和』になるのは周知の通り。平成のプロレスを振り返ったとき、この約30年間はどういう時代だったのだろうか。
 ところが『昭和プロレス』とはよく言うが、『平成プロレス』という言葉はあまり聞かない。平成のプロレスは、あまり印象に残っていないということなのか。
 しかし歴史の転換点とは、その最中にいるときには気付かないものだ。後から振り返ったとき、『その時、歴史が動いた』という瞬間が見えて来る。
 今回は、昭和から平成に移り変わるときのプロレス界を見ていこう。それを見ると、令和プロレスの行く末を占うことができるかも知れない。

昭和から平成に時代が変わった瞬間、歴史は動いていた!

 1989年(昭和64年)1月7日、昭和の時代が終わりを告げ、翌日の1月8日から平成が始まった。日本のプロレスが本格的に幕を開けたのは、1954年(昭和29年)2月19日に蔵前国技館で行われた力道山&木村政彦vs.シャープ兄弟とされているので、昭和プロレスは35年間だったということになる。つまり、長さ的には平成プロレスとさほど変わらないわけだ。
 そして、昭和から平成に元号が切り替わったとき、プロレス界は大きな転換期を迎えていたのである。

 1989年(平成元年)4月24日、新日本プロレスがプロレス団体として初めて東京ドームに進出した。このとき、5万3千800人(主催者発表)の観衆を動員している。
 昭和でも球場での興行はあったものの数としては少なく、大会場と言えば日本武道館や両国(あるいは蔵前)国技館、大阪城ホールなど1万人規模のアリーナだった。プロレス黄金時代と言われた昭和55~60年頃だって、球場での興行はなかったのだ。それが平成になっていきなり、数万人を集めるドーム球場で興行を打ったのである。
 その後、他団体も東京ドームに進出し、また全国各地にドーム球場が完成したこともあって、ドーム大会は平成プロレスの象徴となった。
 ドーム球場で数万人も集めていたのだから、平成プロレスは隆盛を極めていたように見えるが、そうばかりとも言えないのである。プロレス界の『平成不況』は、平成が始まる前年に始まっていた。

 1988年(昭和63年)春、新日本プロレスを中継していたテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』と、全日本プロレスを放送していた日本テレビの『全日本プロレス中継』が、揃ってゴールデン・タイムから撤退したのである。
 事実上、昭和最後の年である昭和63年に、プロレス人気を支えていた2つのテレビ中継が揃ってゴールデン撤退というのは、偶然とはいえ昭和プロレスの終焉を暗示していた。
 力道山が日本にプロレスを伝えた頃、ちょうど日本でもテレビ放送が開始された。プロレスはテレビ電波に乗り、二人三脚のようにプロレスとテレビは発展していったのである。もちろん、昭和のプロレス黄金時代も、テレビ中継なしでは有り得なかった。
 つまり、『昭和プロレスの終焉』とは『テレビプロレスの終焉』でもあったわけだ。

▼[ファイトクラブ]日本のテレビと日本のプロレス(2)

[ファイトクラブ]日本のテレビと日本のプロレス(2)

 特番以外でゴールデン・タイムからプロレスが消え、そして東京ドームへ進出したのは、平成プロレスのビジネス・モデルがテレビからライブへ移行したことに他ならない。さらに当時、家庭用ビデオのVHSの普及により、試合のビデオ販売も大きな収入源となった。
 プロレス・ファンはお金を払って会場に行き、そしてビデオを買ってプロレスを二重に楽しむようになったのである。

 そのかわり、ゴールデン・タイムからプロレスが消えたことによって、一般の人がプロレスを目にする機会が激減した。昭和時代の、テレビで無料のプロレスを『なんとなく』楽しんでいたファンがいなくなり、プロレス・ファンと非プロレス・ファン(アンチではない)がハッキリ分かれたのが平成だったのである。
 熱心なプロレス・ファンが激増したものの、日本国民という圧倒的な分母を失ったのが平成プロレスだったと言えよう。

▼平成プロレスの象徴、東京ドーム

平成の始まりにBI時代が終焉するも『鶴藤長天』は長くは続かず

 それでは、リング上ではどうだったのか。
 やはりここでも、昭和から平成の変わり目に大きな事件が起きていたのだ。

 1988年(昭和63年)7月22日、札幌中島体育センターでアントニオ猪木が長州力にフォール負けした。猪木が弟子にシングル・マッチでピンフォールを奪われたのは、このときが初めてである。さらに翌1989年(平成元年)2月22日にも、両国国技館でリキ・ラリアット6連発により猪木は長州にフォール負け。
 しかも同年4月24日、前述した東京ドーム初進出のときに、猪木は柔道のショータ・チョチョシビリに完敗。これが猪木にとって、異種格闘技戦での初敗北だった。
 これらの敗北は、猪木時代の終焉を物語っていた。そして同年の夏に猪木は参議院選挙に出馬、見事当選して政界入りする。こうして猪木は、メインから退いた。

 新日本プロレスで世代交代が起きた一方、ライバルの全日本プロレスでもやはり事件は起きていた。
 1989年(平成元年)11月29日、ジャイアント馬場がタッグ・マッチとはいえ天龍源一郎にフォール負け。馬場にとってこれが、弟子に初めて奪われたピンフォールだった。場所は、猪木が長州に初フォール負けしたときと同じ札幌中島体育センターだったというのも面白い。札幌のファンは、二度も歴史的瞬間を見ることができたわけだ。
 猪木より5歳年上の馬場は、このとき既にメインからは事実上退いていたが、それでも弟子にフォールを奪われたのは事件だったと言える。

▼昭和から平成の変わり目、弟子にピンフォールを奪われたアントニオ猪木とジャイアント馬場

 新日本プロレスが藤波辰巳(現:辰爾)と長州力の『名勝負数え歌』、全日本プロレスがジャンボ鶴田と天龍源一郎による『鶴龍対決』という、それぞれのエース争いが大人気を博し、平成の世は馬場・猪木の『BI』に代わる『鶴藤長天(かくとうちょうてん。『格闘頂点』をもじり、鶴田・藤波・長州・天龍の頭文字を取った造語)』の時代になるはずだった。しかし、『鶴藤長天』の時代は、長くは続かなかった。

 その理由は、BIの時代が長すぎたからである。力道山が日本でプロレスを始めたのが1954年(昭和29年)2月19日で、没したのは1963年(昭和38年)12月15日だから、第一世代である力道山の時代は実質10年間。
 その後、豊登の時代が少しあったとはいえ、実際にはその後は第二世代であるBIの時代だったと言ってよい。20歳代からエースを張った馬場と猪木は、昭和の終わりまで約25年間もプロレス界のトップを走り続けたのだ。
 そして第三世代、長州の言う『俺たちの時代』が実現した頃には、『鶴藤長天』の4人は既に下り坂だったのである。平成元年の時点で言えば、鶴田は38歳、藤波は36歳、長州は38歳、天龍は39歳だった。
 藤波と長州は常にケガに悩まされ、鶴田は1992年(平成4年)にB型肝炎を発病、2000年(平成12年)に帰らぬ人となった。

『鶴藤長天』がトップを獲った頃、既に第四世代が育っていた。それが新日本プロレスの『闘魂三銃士(武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋)』と、全日本プロレスの『全日四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)』である。平成プロレスの前半は、『三銃士』と『四天王』の時代だったと言っていいだろう。
 第一世代は力道山1人、第二世代は馬場・猪木の2人、第三世代は『鶴藤長天』の4人、第四世代は『三銃士』と『四天王』の7人と、ほぼ倍々ゲームになっている。そこに、プロレスの変遷が現れているのではないか。つまり、団体のエースが1人ではなくなったということだ。
 しかも、第四世代は『三銃士』と『四天王』の7人だけではなく、もっと多くのレスラーがメインを張っていたのだ。平成プロレスは、群雄割拠の時代だったのである。

▼『鶴藤長天』による『俺たちの時代』は、長くは続かなかった

第二次UWFとFMW、対極にあるプロレス団体が多団体時代を生んだ

 馬場と猪木がメインから退いた平成初期、それは馬場と猪木のプロレス界における影響力も低下していたということになる。
 昭和時代は、常にマット界のトップであり続けた全日本プロレスと新日本プロレス。力道山が興した日本プロレスから派生した両団体は、親元とも言える日本プロレスを崩壊に追い込み、昭和後期のプロレス界を牛耳った。他に国際プロレスもあったが所詮、全日本プロレスと新日本プロレスの敵ではなかったのである。

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