[ファイトクラブ]平成の初めに、全日本プロレスと新日本プロレスが歴史的遭遇!

[週刊ファイト2月21日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼平成の初めに、全日本プロレスと新日本プロレスが歴史的遭遇!
 by 安威川敏樹
・平成2年の東京ドームで、全日本プロレスと新日本プロレスが激突
・参議院選挙が生んだ、全日本プロレスと新日本プロレスの雪解け
・新日本プロレスのファンも興奮した、全日本レスラーの登場
・ジャイアント馬場から全幅の信頼を得ていた天龍源一郎
・SWS事件により、全日本プロレスは鎖国政策へ


 1999年1月31日に、ジャイアント馬場が61歳で亡くなって、今年で早や20年となる。2月19日には東京・両国国技館でジャイアント馬場没20年追善興行を行うのは、本誌で何度もお伝えした通りだ。

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 ジャイアント馬場は偉大なレスラーだっただけではなく、もう一つの顔は全日本プロレスのオーナーとしての貌。生前は、アントニオ猪木が率いる新日本プロレスとのライバル関係で、火花を散らしていた。当時は、全日本プロレスと新日本プロレスが交わるなど、考えられなかったのである。

 そんな全日本と新日本が、馬場が存命しているときに二度だけ同じ土俵、というかリングに上がった。1回目は、言わずと知れた1979年8月26日に行われた『プロレス夢のオールスター戦』。そして2回目が、1990年2月10日に開催された、新日本プロレスでの東京ドーム大会『’90 スーパーファイト in 闘強導夢』だった。
 今から29年前、馬場が全日本の選手を、敵対している新日本の大会に貸し出すなんて、驚天動地の出来事だった。

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参議院選挙が生んだ、全日本プロレスと新日本プロレスの雪解け

 今年の夏、参議院選挙が行われる。いつ行われるのか判らない衆議院選挙と違い、3年に1度は夏の時期に必ず行われる参院選が、日本のプロレス界に思わぬ奇跡をもたらした。
 1990年の新日本の東京ドーム大会が行われる前年、猪木は参院選に出馬してスポーツ平和党の比例区で見事当選、参議院議員となった。これにより猪木は新日本プロレスの会長職に退き、社長には坂口征二が就任したのである。

 馬場は猪木のことを全く信用していなかった。1979年のオールスター戦では馬場と猪木は8年ぶりにタッグを組んだが、このときに馬場は猪木に対する不信感をますます深めたのである。
 その後も全日本と新日本は激しい外国人レスラーの引き抜き合戦を繰り返し、両団体は険悪ムードが続いた。
 しかし、猪木の参院選当選により、その流れが一変した。新日本のトップが坂口になったことによって、全日本との友好ムードが流れ始めたのである。
 全日本と新日本がギスギスした関係の中、その仲を取り持っていたのが坂口だった。猪木を信用していなかった馬場も、坂口のことは信用していた。

 全日本はWWF(現:WWE)との合同興行を1990年4月に東京ドームで行うことを決めたが、馬場は新日本にも参加を要請した。『猪木時代』には考えられなかったことだ。
 坂口は馬場の申し出を了承し、全日本プロレス・新日本プロレス・WWFという合同興行が1990年4月13日に実現したのである。この興行は『日米レスリング・サミット』と銘打たれた。
 ただし、この興行に全日本と新日本との絡みはなかった。あくまでもメインは全日本vs.WWFという対決で、新日本はそこに試合を提供しただけである。

 しかし、このレスリング・サミットはさらなるドラマを生み出した。当時、アメリカでWWFと敵対していたWCWは、提携している新日本がWWFの興行に参加することに難色を示し、同年2月10日の『’90 スーパーファイト in 闘強導夢』に派遣を予定していたリック・フレアーの出場を差し止めたのである。

 困った坂口は、馬場に協力を求めた。馬場は坂口の申し出を了承し、全日本の選手を新日本に貸し出すことにしたのである。
 新日本プロレスのマットに、全日本プロレスのレスラーが上がる? しかも、両団体の激突だ。今のファンにとってはピンと来ないかも知れないが、当時としては信じられない出来事だった。絶対に有り得ないと言われた、全日本プロレスと新日本プロレスの雪解け現象である。
 この日の、全日本絡みのカードは以下の通り。

  <全日本>ジャンボ鶴田&谷津嘉章vs.木村健悟&木戸修<新日本>
  <全日本>天龍源一郎&タイガーマスク(三沢光晴)vs.長州力&ジョージ高野<新日本>
  <全日本>スタン・ハンセンvs.ビッグ・バン・ベイダー<新日本>

 このうち、鶴田組と天龍組が絡んだ試合は、テレビ契約の関係でテレビ中継はなし。ハンセンvs.ベイダーはテレビ中継され、結局は両リン引き分けとなったが、ド迫力のスーパー・ヘビー級ファイトは今でも語り草になっている。
 この日、世間的に最も注目されたカードは、元横綱・双羽黒のデビュー戦となる北尾光司vs.クラッシャー・バンバン・ビガロだったが、プロレス・ファンが何よりも楽しみにしていたのは、全日本絡みの3試合だったに違いない。

▼ジャイアント馬場とアントニオ猪木とのパイプ役に尽力した坂口征二
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新日本プロレスのファンも興奮した、全日本レスラーの登場

 全日本プロレスのタッグでトップを張っていた鶴田&谷津の『五輪コンビ』の相手として、木村&木戸はややインパクトが弱いように思われた。格からすると、五輪コンビは勝って当たり前のような感があったからである。
 しかも、新日本プロレス出身の谷津はともかく、鶴田は馬場の秘蔵っ子で、新日ファンが最も嫌う存在。全日本色をいちばん出しているレスラーだった。当然のことながら、東京ドームを埋め尽くした新日ファンからは、大ブーイングが巻き起こることが予想されたのである。

 ところが、新日本のリングに上がる鶴田を待っていたのは、東京ドームでの「ツルタ、オー!」の大合唱だった。さらに、ウェーブまで巻き起こったのである。
 ジャンボ鶴田が新日本プロレスのマットに上がる、それだけで新日ファンは大興奮だったのだ。
 試合内容も、充分にファンを楽しませるものだった。特に、木戸との絡みは秀逸だったと言えよう。第一次UWFに参加した木戸は、カール・ゴッチから絶賛されたレスラー。鶴田が初めて遭遇するU系とのファイトに、ファンは酔いしれた。鶴田に臆することなくサブミッションを繰り出す木戸に、鶴田もロープ・エスケイプで逃げる。
 結果は15分6秒、鶴田が空中胴締め落としで木戸からピンフォールを奪ったが、それ以上にジャンボ鶴田が新日マットに上がった、その事実だけでファンは満足した。

 そして、天龍&三沢タイガーvs.長州&ジョージ。こちらは結果から言うと、三沢タイガーがジョージに18分59秒でリングアウト勝ちだが、そんな勝敗はどうでもいいだろう。
 むしろ、馬場がよく、このカードを了承したなあ、というのが正直な感想だ。何しろタッグとはいえ、天龍と対戦するのは長州。長州力と言えば、ジャイアント馬場を裏切った男だった。

 新日本プロレス出身の長州は、新日本で『革命』を起こし大ブームを起こしたものの、ジャパンプロレスを設立して新日本を離れ、全日本プロレスと提携する。ところが、長州は僅か2年で新日本にUターンした。「全日本には夢がない」という言葉を残して。
 馬場にとって長州は、憎んでも憎み切れない男のはずだったが、それでもタッグとはいえ天龍との対戦を了承した。天龍と長州と言えば、ジャパンが全日本と提携していた頃から抗争を繰り広げていたが、私生活では仲が良かった。長州が全日本を去る時も、天龍に「新日本に来ないか?」と誘っていたほどである。

 馬場は猪木を信用していなかったが、もっと言えば新日本のレスラーも信用していなかった。この東京ドームでも、馬場は「もし向こう(新日本)がヘンなこと(シュート)を仕掛けてきたら、構わないからやり返せ!」と全日本のレスラーに指令していたぐらい、『新日のレスラーは何をやらかすのか判らない』と警戒していたのである。
 あるいは、新日本のレスラーを信用していないというより、猪木に育てられたレスラーを信用していなかった、ということか。その象徴が、長州力だった。全日本では長州をはじめジャパンを優遇していたのに、後ろ足で砂をかけて出て行った、と。

 そんな長州と、全日本で最も近しいのは天龍だった。それを知らない馬場ではあるまい。それではなぜ、馬場は新日本の興行で、天龍と長州を闘わせることを了承したのだろう?

▼昔から仲が良かった長州力と天龍源一郎

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