[ファイトクラブ]元日の日本で引退した『地獄の墓掘人』ローラン・ボックと週刊ファイト

[週刊ファイト1月17日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼元日の日本で引退した『地獄の墓掘人』ローラン・ボックと週刊ファイト
 by 安威川敏樹
・筆者が初めて買ったプロレス書物は『週刊ファイト』ボック特集号
・アントニオ猪木がローラン・ボックに敗れた『シュツットガルトの惨劇』
・長州力やラッシャー木村らを瞬殺したローラン・ボック
・たった一度だけ組まれた夢のタッグ、ローラン・ボック&スタン・ハンセン
・西ドイツでのアンドレ戦、谷津嘉章との対談など、てんこ盛りの内容
・『江夏は1年で6千万円、猪木は20日で5千万円』
・猪木との元日決戦を最後に、突如引退したローラン・ボック
・ローラン・ボックの横暴に、I編集長の怒りが爆発!


 読者の皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 昨年は最下位に沈んだ我が阪神タイガースも矢野燿大新監督を迎え(去年の暮れも同じようなことを書いていたな)、また今年はラグビーのワールドカップも日本で開催されるとあって、非常に楽しみな1年となりそうです。
 もちろん、『週刊ファイト』もシュー活(シュート活字)メディアとして、ますます充実させて参ります。

 さて、その『週刊ファイト』だが、筆者には忘れられない特集号がある。今から37年前、1981年の暮れに発売された『ローラン・ボック特集号』だ。
 今回は平成最後の年、2019年の幕開けとして、その特集号について触れたいと思う。

▼[ファイトクラブ]『週刊ファイト』メモリアル 第6回 A・猪木を葬ったボックは文字通り変なヤツ!?

[ファイトクラブ]『週刊ファイト』メモリアル 第6回 A・猪木を葬ったボックは文字通り変なヤツ!?

筆者が初めて買ったプロレス書物は『週刊ファイト』ボック特集号

 1981年当時、『週刊ファイト』は新大阪新聞社が発行する、プロレス専門でタブロイド判の週刊新聞だった。この頃の編集長は『I編集長』こと故・井上義啓氏。現在も本誌ライターの井上譲二氏は当時から『週刊ファイト』第一線の記者だった。ターザン山本(山本隆司)氏は1年半ほど前に『週刊ファイト』からベースボール・マガジン社の『月刊プロレス(週刊プロレスの前身)』に移籍していた、そんな時代である。
『ゴング』もまだ月刊で『別冊ゴング』も発行していたが、週刊化はしていなかった。他にも『レジャーニューズ』があったとはいえ、プロレス専門の週刊紙(誌)は事実上『週刊ファイト』だけだったのである。

 さて、筆者がプロレス関連の書物で初めて買ったのが、前述した通り1981年の暮れに発売された『週刊ファイト』のローラン・ボック特集号だった。なぜ、この号を買ったのか? よくは憶えていないが、小遣いが少なかった中学生の筆者に『月刊プロレス』や『ゴング』は値段が高過ぎたということと、ローラン・ボックというレスラーに興味を持っていた、ということだろう。
 そして現在でも、このときの『週刊ファイト』ローラン・ボック特集号は、プロレス・ファンの間で伝説的な存在になっている。それだけ内容が濃かったのだろう。
 残念ながら37年も前の新聞で、しかも引っ越しもしているため、当時の『週刊ファイト』は手許に残っていない。もし残っていればお宝物なのに、非常に残念だ。
 しかし、何度も読み返したので、内容はよく憶えている。今回は、この特集号の記事を思い出して書いてみたい。

▼西ドイツ(現:ドイツ)でローラン・ボックに取材する、タブロイド紙時代の井上譲二氏

長州力やラッシャー木村らを瞬殺したローラン・ボック

 ローラン・ボックは、日本のプロレス・ファンには馴染みの薄い西ドイツ(現:ドイツ)のプロレスラー。来日回数は僅か3回しかない。それなのになぜ、ボックは伝説のレスラーとなったのか?

 ローラン・ボックの名前が日本で知られるようになったのは1978年11月。アントニオ猪木が西ドイツに遠征し、ボックと闘ったものの、猪木は判定負け。この試合はテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』で録画中継された。ピンフォールを取られなかったとはいえ、日本のファンには最強と信じられていた猪木が良いところなく敗れたことにより、『シュツットガルトの惨劇』と呼ばれるようになったのである(トップ画像参照)。
 この試合は1ラウンド4分の10ラウンド制で行われ、ボクシングのように判定があった。そして、ショーマン・シップがほとんどないボックのファイトぶりは『地獄の墓掘人』と呼ばれ、ボックは未知の強豪として知られるようになったのだ。
 1979年7月、ボックは来日して猪木と再戦を行う予定だったが、不慮の交通事故により来日は中止。ますますボックの強さは伝説化した。

 ボックが日本のファンの前にベールを脱いだのは、それから2年後の1981年7月。ボックは日本デビュー戦で木村健吾(現:健悟)を相手に、僅か1分35秒でピンフォール勝ちしている。決め技となったのはダブルアーム・スープレックス。ダブルアーム・スープレックスと言えば『人間風車』ことビル・ロビンソンの得意技だったが、このときからボックの代名詞的技になったと言っても過言ではない。『受け身の取れないスープレックス』と呼ばれ、ボックのセメント強さが印象付けられた一戦となった。
 さらに、当時はまだブレイク前の“若手のパリパリ(漫画『プロレススーパースター列伝』参照)”長州力を3分28秒、やはりダブルアーム・スープレックスで屠っている。
 ボック2度目の来日は同年11月。このときもやはり長州を3分11秒で破り、さらにラッシャー木村にも2分50秒でピンフォール勝ちした。いずれも決め技はダブルアーム・スープレックスだった。まだ若手のパリパリ(しつこい)だった長州はともかく、猪木を倒すべく他団体から来たR木村を3分足らずで片付けるとは、国際プロレス元エースのメンツも丸潰れである。

▼国際プロレスのエースだったラッシャー木村も、ローラン・ボックの負け役をやらされた

 ボックがこれだけ秒殺に近い形で勝ち続けたのは、一つは猪木のライバルとしての強さをアピールさせるため、もう一つの理由はボックの体調が悪くて相手にセールする余裕がなかった、ということだろう。交通事故の後遺症もあったが、ボックは血栓症も患っており、長い時間を闘うことができなかったのだ。
 さらに、もう一つ付け加えるならば、ボックに相手を引き立てるだけの技量がなかった、ということか。あるいは、相手を引き立てることを嫌った、要するにワガママだったということもあったかも知れない。

 ちなみに、このシリーズでボックはスタン・ハンセンとタッグを組み、アントニオ猪木&藤波辰巳(現:辰爾)と闘い、ボックが藤波からダブルアーム・スープレックスでピンフォールを奪っている。
 この5日後にハンセンは全日本プロレスのマットに突如乱入、電撃移籍を発表した。今から思えばスタン・ハンセン&ローラン・ボックという、最初で最後の豪華タッグ・チームだった。

▼ローラン・ボックと、たった一度だけタッグを組んだスタン・ハンセン

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西ドイツでのアンドレ戦、谷津嘉章との対談など、てんこ盛りの内容

『週刊ファイト』のローラン・ボック特集号が発売されたのは、このシリーズ終了後だった。タイトルには『世界一強い男』というキャッチフレーズが付けられていたと記憶している。
 さすがに当時の『週刊ファイト』は『猪木新聞』とも言われていただけあって、新日本プロレスに関する記事が豊富だった。猪木信者だった作家の村松友視氏も『私、プロレスの味方です(角川文庫)』の中で『週刊ファイト』を絶賛している。

 目を惹いたのは、西ドイツでボックがアンドレ・ザ・ジャイアントと闘った試合の詳報が載っていたことだ。ボックはアンドレを、ダブルアーム・スープレックスやバックドロップで投げ飛ばしたという。ボックのことを『大巨人を震え上がらせた男』とも書かれていた。
 ちなみに、このアンドレ戦でボックは血栓症を発症。交通事故の後遺症も相まって、レスラー寿命を縮めた。

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