[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第50回 米マットでもいじられていた海外通信員時代の茨城清志氏

[週刊ファイト11月29日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第50回
 米マットでもいじられていた海外通信員時代の茨城清志氏
・ジョークのキツい米国人レスラーにいじられる日本人記者
・一緒にいると初対面の外国人レスラーも取材しやすかった
・“VIP待遇”を受け、大変ありがたかった
・茨城氏がからかいやすいオーラを発していたことも事実


 日本人VS外国人が主流だった70年代~80年代、各プロレス専門紙(誌)にとって、米マット取材は日本でのそれと同じくらい重要だった。私もひんぱんにアメリカに出掛けたが、米マットのレスラー、関係者たちは基本的に日本人記者に対し神対応。ある意味、国内以上に取材しやすかった。ただ、ジョークのキツい米国人レスラーにいじられる日本人記者もいた。海外通信員時代の茨城清志氏(元W☆ING代表)である。

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茨城清志氏

 複数のパスポートに押された出入国のスタンプを数えたことがないので正確な回数はわからないが、私は1977年6月の初渡米から約10年の間に50回以上、取材で米国に行っている。ニューヨークからのフライト時間がわずか1時間のカナダ・トロントには10回以上。あと、イギリス、西ドイツ(当時)、プエルトリコにもそれぞれ2~3回ずつ行った。

 ひんぱんに海外に出掛けていることを知っている会社の同僚からは「いろんな国に行けるキミが羨ましい」と言われたものだが、観光を楽しんだ記憶はほとんどなく、現地で空港-ホテル―会場を往復するだけの私にしてみれば「遊びに行ってるんじゃないだよ!」と言いたくなった。

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左からブルース・クリッツマン、ビル・アプター、ジョージ・ナポリターノ、筆者、フランク・アマロ 1980年8月9日ニューヨーク旧シェイ・スタジアム 撮影:テレ朝プロデューサー栗山満男 

 ただ、いろんなテリトリーに行く楽しみはあった。それは日本で取材した外国人レスラーと再会できること。彼たちは一様に私との再会を喜んでくれ、食事などに誘ってくれるレスラーも少なくなかった。

 そして、もう一つの楽しみは、79年にヒューストン・コロシアムのリングサイド(撮影中)で出会って以来、急速に親しくなった茨城清志氏と行動を共にすることだった。

ヤマモvs.茨城清志 ジャパン女子~W★ING復活の軌跡

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