[ファイトクラブ]新日本vs.全日本の蔵前大戦争! 老舗2団体が最も熱かった頃

[週刊ファイト10月11日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼新日本vs.全日本の蔵前大戦争! 老舗2団体が最も熱かった頃
 by 安威川敏樹
・1981年、国際プロレスが崩壊して日本マット界は2団体時代へ
・新日本と全日本、共に10周年を迎えた記念の年
・新日本が全日本に仕掛けた蔵前大戦争勃発!
・出場しない国際プロレスの選手が新日本のポスターに載ってる!?
・年末まで続いた 新日本vs.全日本の引き抜き合戦


 台風21号に続いて24号も日本列島を直撃する中、停電になってパソコンの電源が落ちてしまうのではないかとビクビクしながら、この原稿を書いている。いやいや、停電で済めばマシで、大災害に巻き込まれるかも知れない。

 今から37年前の1981年、日本のプロレス界も台風が直撃したように大荒れに荒れていた。当時は全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの3団体時代。このうち国際プロレスは、1981年8月9日の北海道羅臼町での興行を最後に活動停止、さらに9月30日には正式に解散となって、これで日本の男子プロレスは2団体となった。
 9月23日の新日本プロレスでの東京・田園コロシアム大会では、国際プロレスのエースだったラッシャー木村がアニマル浜口を引き連れてリングに上がり『こんばんは』発言をして新日登場をアピールした。

▼[ファイトクラブ]伝説の田コロ決戦! 合計400kgが激突したハンセンvs.アンドレ戦

[ファイトクラブ]伝説の田コロ決戦! 合計400kgが激突したハンセンvs.アンドレ戦

 こうして新日本プロレスvs.国際プロレスの全面対抗戦が行われることになったが、実際に火花を散らしたのは新日本プロレスと国際プロレスではない。
 新日本プロレスと全日本プロレスだったのである。

新日本と全日本、共に10周年を迎えた記念の年

 新日本プロレスは、頭に『新』と付きながら、現存する日本最古のプロレス団体であり、1972年3月6日に東京・大田区体育館で旗揚げした。力道山が興した日本プロレスを永久追放になったアントニオ猪木が、新日本プロレスを創設したのである。
 一方の全日本プロレスは新日本プロレスに遅れること7ヵ月、同年10月21日に東京・町田市体育館で旗揚げ前夜祭を行ったのが始まりだ。こちらもやはり、日本プロレスから独立したジャイアント馬場が全日本プロレスを設立したのである。
 これにより全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレス、日本プロレスの4団体となったが、馬場と猪木という2大スターを失った日本プロレスは客を呼べずに間もなく崩壊、3団体時代となった。
 しかし、前述したように国際プロレスは1981年に倒産、新日本プロレスと全日本プロレスの2団体時代となったのである。

 3つのうち1つの団体が消滅したのだからプロレス冬の時代のように思えるが、実際はその逆。この時の日本では、空前のプロレス・ブームとなっていたのだ。
 いや、この書き方は正しくないのかも知れない。この頃の全日本プロレスは、それまでの土曜夜8時からのテレビ中継が夕方5時30分からの放送となり、ゴールデン・タイムからの撤退を余儀なくされていた。
 一方の新日本プロレスは、金曜夜8時からのゴールデン・タイムでの放送、しかも視聴率は20%超えを誇っており、黄金時代を謳歌していたのである。そのため「プロレス・ブームではなく新日本プロレス・ブームだ」と言われていたものだ。

 新日本プロレスと全日本プロレス、共に10周年を迎えたこの1981年、新日本は全日本を叩き潰すべく、一気に勝負に出た。その象徴がこの年の4月23日にデビューした初代タイガーマスク(佐山聡)の存在である。タイガーマスクの人気はプロレスを知らない層まで巻き込み、社会現象にすらなった。
 そして新日本プロレスは5月、全日本プロレスの看板悪役外人だったアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、全日本潰しの王手飛車取りとも言える一手を打ったのだ。

 これで全日本も瀕死状態になったかと思われたが、新日本にとって思わぬシッペ返しが来た。馬場を本気で怒らせてしまったのである。馬場は新日本の看板悪役外人タイガー・ジェット・シンを抜き返し、仁義なき引き抜き合戦が勃発した。

▼お茶の間にタイガー・ブームを席巻させた初代タイガーマスク(佐山聡)

新日本が全日本に仕掛けた蔵前大戦争勃発!

 1981年秋に始まった全日本プロレスのジャイアント・シリーズ第7戦、10月9日の蔵前国技館大会は10周年記念興行が予定されていた。『今世紀最大・夢の4大決戦』と銘打ち、乾坤一擲の大勝負に出たのである。
 以下が、蔵前4大決戦のカードだ。

  ジャイアント馬場&ブルーノ・サンマルチノvs.タイガー・ジェット・シン&上田馬之助
  ドリー・ファンク・ジュニアvs.ブルーザー・ブロディ(インター戦)
  リック・フレアーvs.ジャンボ鶴田(NWA世界戦)
  ミル・マスカラスvs.マイティ井上(IWA世界戦)

 元・国際プロレスのマイティ井上が、早くもミル・マスカラスの王座に挑戦している。NWA世界戦あり、インター戦あり、ブルーノ・サンマルチノが復活したりと、確かに豪華版だ。

 この全日本プロレスに対し、新日本プロレスが興行戦争を仕掛けてきた。この日、即ち10月9日から東京・後楽園ホールで闘魂シリーズが開幕する予定だったが、その前日の10月8日に、全日本と同じ蔵前国技館での10周年記念特別興行を行うと発表したのだ。それが新日本プロレスvs.国際プロレスの全面対抗戦である。もう既に国際プロレスは崩壊しているのだから、対抗戦もヘッタクレもないのだが、名目としては全面対抗戦を謳っていた。

 全日本プロレスの蔵前大会の前日に、わざわざ同じ蔵前国技館で興行を行うことについて、新日本プロレス側はこう説明していた。

「全日本さんの前日ということを承知で、蔵前大会を組み込みました。大会場を使えばニュースとなる全日本さんと違って、ウチはいつでも使ってますので」

 と、『過激な仕掛人』新日本プロレスの新間寿・営業本部長の鼻息も荒い。この全日本プロレスを見下した発言に、またジャイアント馬場の怒りを買うこととなった。
 しかし、新間氏が言っていたことも事実だった。当時の大会場といえば1万人以上のキャパシティだった蔵前国技館、東京体育館、田園コロシアム。日本武道館もあったが、キャパが大きすぎるということで、当時はよほどのビッグ・マッチでない限り敬遠されていた。
 新日本プロレスではこれらの大会場を頻繁に使っていたが、全日本プロレスでは年に数回程度。全日本では大会場での興行のたびに『蔵前4大決戦』『東京3大決戦』という具合にキャッチコピーを打っていたが、新日本ではわざわざそんな宣伝をする必要もなかったのだ。

▼全日本潰しを公言、新日本プロレスの営業本部長だった『過激な仕掛人』こと新間寿氏

出場しない国際プロレスの選手が新日本のポスターに載ってる!?

 新日本プロレスの蔵前特別興行発表の記者会見には、国際プロレスの代表だった吉原功氏をはじめ、国際プロレスの選手たちも出席していた。全日本プロレスの設立当初、国際プロレスは全日本に協力していたが、その後の両団体は決裂、国際プロレスは新日本プロレスとの協調路線に走ることとなった。しかし国際プロレスは崩壊、新日本プロレスに吸収合併されると噂されていたのである。
 吉原代表も「日本マット界の一本化は私の構想。それを実現させようとしている新日本には感謝したい」とさえ言っていた。マット一本化というのも、裏を返せば新日本プロレスは全日本プロレスを吸収合併すべきだ、とも取れる。いわば吉原氏も、全日本潰しには賛成だったわけだ。

 ちなみに、この記者会見にはラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇、阿修羅・原が元・国際プロレスのメンバーとして出席していた。そして、刷り上がった10月8日の蔵前大会のポスターには、全面対抗戦の国際プロレスの選手として前述の4人の他に鶴見五郎、マッハ隼人、マイティ井上の顔写真も掲載されていたのである。

 ここで前項を思い出していただきたい。マイティ井上は全日本の蔵前大会でマスカラスに挑戦していたはず。なぜ、新日本のポスターに載っていたのだろうか。まさかのダブル・ブッキング?

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン