[ファイトクラブ]昭和にとって最後の夏に去ったキングコング・ブルーザー・ブロディ

[週刊ファイト7月26日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼昭和にとって最後の夏に去ったキングコング・ブルーザー・ブロディ
 by 安威川敏樹
・今年は平成にとって最後の夏
・30年前、『超獣』ブルーザー・ブロディは昭和と共に去った
・ジャイアント馬場を完全ピンフォール! 驚くべき身体能力
・実は覆面レスラーだった⁉ ブルーザー・ブロディ
・ブロディのボイコット事件の真相は、新日の契約違反が原因!?
・昭和にとって最後の夏、超獣は散った

▼評伝ブルーザー・ブロディ 超獣の真実~暁に蘇れ

評伝ブルーザー・ブロディ 超獣の真実~暁に蘇れ


 今年はもう、平成で言えば30年。今から30年前、昭和から平成へ移行したときには、一つの時代が終わったと実感したものだ。それが、ついこの前のように思えるが、もう30年も経ったのである。そんな2018年も、平成にとって最後の夏を迎えるわけだ。来年の5月1日には、新元号に移行する。

 今からちょうど30年前の7月も、昭和にとって最後の夏を迎えていた。昭和63年、西暦で言えば1988年である。バブル景気が真っ只中だったこの時代、その後に平成の大不況に襲われるなど、誰も知らなかった。人々は好景気に浮かれる反面、働き過ぎにより労働者が次々と倒れ、過労死が大きな社会問題となっていた時代である。

 そんな時代の境目である1988年、即ち昭和63年7月17日、1人の偉大なレスラーがこの世を去った。『超獣』ことブルーザー・ブロディである。
 ブロディは昭和最後の好景気に、日本に現れて、昭和の最後の夏にプエルトリコで還らぬ人となった。『ブロディ死す』この一報を受けた日本のプロレス・ファンは、誰もが信じられない思いに突き落とされただろう。

ジャイアント馬場を完全ピンフォール! 驚くべき身体能力

 ここからは少し、筆者の想い出話を書かせて欲しい。筆者がプロレスを見るきっかけとなったのが、ブルーザー・ブロディだったのだ。
 筆者は幼少の頃、プロレスには全く興味がなかった。同級生がプロレスごっこに興じる中、筆者は醒めた目で見ていたのである。

 中学生の頃、半ドンだった土曜日の夕方に何気なくテレビを点けたら、プロレス中継を放送していた。10チャンネル、筆者は関西在住のため読売テレビである。もちろん昭和時代、1981年のことだった。
 土曜日の午後5時半から日本テレビ系で放送していたのは全日本プロレスである。エースはジャイアント馬場。プロレス・オンチだった筆者も、馬場の名前ぐらいは知っていた。
 しかし、二番手エースであるジャンボ鶴田の名前は知らない。その程度の知識だった。アントニオ猪木の名前は知っていたが、なぜ猪木はテレビに出てないのだろうと不思議に思ったぐらいだ。
 当時の日本のプロレス界には、馬場の全日本プロレス、猪木の新日本プロレスという、二大勢力があると知ったのは、それからしばらく後のことである。もちろん、ラッシャー木村の国際プロレスなど、全く知らなかった。

 このときの全日本プロレスでは、チャンピオン・カーニバルが繰り広げられていた。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の日本勢に加えて、ブルーザー・ブロディとアブドーラ・ザ・ブッチャーの外人勢が優勝争いを演じていたのである。
ブッチャーの名前は知っていたが、ブロディなんて全く知らなかった。しかしブロディは、巨体ながら均整が取れた肉体に、スピードと跳躍力が宿っていた。ブロディによって筆者は、プロレスラーの凄さを実感したのである。
 チャンピオン・カーニバルの最終戦、ブロディは馬場に一瞬の隙を突かれてピンフォール負けしたが、その強さはインパクト抜群だった。

 そして、チャンピオン・カーニバルの直後に、インターナショナル・ヘビー級争奪トーナメントが開催された。日本プロレス崩壊後、インター・ベルトは大木金太郎が保持していたが、インター王座を管轄する団体がなくなっていた。そこで大木がインター・ベルトを返上する形で全日本プロレスが管轄するようになり、その王座決定トーナメントが開催されたのである。
 準決勝でブロディと馬場が激突、ブロディはキングコング・ニードロップで完全ピンフォールを奪った。このときの筆者は、ブロディの強さに度肝を抜かれたのである。

▼1981年のインター争奪準決勝、ブルーザー・ブロディはジャイアント馬場にキングコング・ニードロップを放ち、完全ピンフォール勝ち

YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=t6l2NYCnBCw&t=510s

実は覆面レスラーだった⁉ ブルーザー・ブロディ

 その年の暮れ、ブルーザー・ブロディはジミー・スヌーカと組んで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場していた。その最終戦の12月13日、東京・蔵前国技館でブロディ組はドリー・ファンクJr.&テリー・ファンクのザ・ファンクスと対戦した。勝った方が優勝である。

 ブロディ組入場のとき、新日本プロレスのエース外人だったスタン・ハンセンが突如として乱入。ブロディ組のセコンドに着いた。
 当時の全日と新日は、まさしく犬猿の仲。ハンセンの乱入は新日の計らいであるはずがない。前例のない他団体のエース外人の乱入により、蔵前国技館は騒然となった。
 ブロディにとってハンセンは、ウエスト・テキサス州立大学のアメリカン・フットボール部の後輩。プロレス入り後も、2人はタッグを組んでいた。テンガロン・ハットと言えばハンセンの代名詞だが、グリーン・ボーイ時代のブロディもハンセンに合わせてテンガロン・ハットを被っていたのである。
 売れない頃は金もなく常に腹を減らしていて、2人で組んで無銭飲食まがいのことをしていたそうだ。このあたりの連携プレイも見事だったといったところか。

 話を元に戻すと試合中、場外でハンセンがテリーに必殺のウエスタン・ラリアット! テリーが戦闘不能になったためドリーが独りで闘わざるを得なくなり、ブロディのキングコング・ニードロップの餌食に遭ってピンフォール負け、ブロディ&スヌーカ組の優勝となった。
 試合後に馬場と鶴田が乱入、馬場がハンセンに怒りの脳天唐竹割りを浴びせた。まあ、乱入を指示したのは馬場だったが、このときの馬場は演技とは思えない、凄い迫力だった。

▼全日本プロレスのスタン・ハンセン乱入事件。ジャイアント馬場が怒り(?)のコメント

 ハンセンが正式に全日本プロレスに移籍、ハンセン&ブロディの超獣コンビが全日の目玉となった。今でもハンセン&ブロディが史上最強タッグ・チームという声は根強い。
 ただ、本場のアメリカでは、ブロディもハンセンも扱いにくいレスラーだったようだ。特に日本で人気が出てからは、ジョブ(負け役)をやりたがらない。1980年代と言えば日本でもプロレス・マスコミが発達して、アメリカでの試合結果がすぐ日本に伝わる。
 そこでブロディやハンセンが負けたと報じられると、日本での商品価値が下がってしまう。当時の日本マットはギャラや待遇が本場アメリカよりも遥かに良く、レスラーにとって最高の稼ぎ場所。そのマーケットを失うことは、外人レスラーからすれば致命傷だった。

 今でも憶えているのが、テレビ東京系の番組『世界のプロレス』でのこと。クラッシャー・ブラックウェルという巨漢レスラーが、謎の大柄マスクマンと対戦していた。ブラックウェルは全日本プロレスに何度か登場していたが、百貫デブ体型で日本での評価は今一つ。しかしAWA圏内では売り出し中だった。

 この試合でブラックウェルは謎のマスクマンを圧倒。そして、そのマスクを剥いだ。そこに現れた素顔は、なんとブルーザー・ブロディ! ブロディはマスクマンとして、ジョブ役をやっていたのだ。

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