[ファイトクラブ]ラガーマンからレスラーへ! バックドロップで国プロと共に沈んだグレート草津

[週刊ファイト6月28日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ラガーマンからレスラーへ! バックドロップで国プロと共に沈んだグレート草津
 by 安威川敏樹
・今からちょうど10年前に亡くなったグレート草津
・東スポの桜井康雄氏が百科事典に書いた『国際プロレスのエースはグレート草津』
・草津のラグビー時代は伝説のロック
・海外への憧れと学歴コンプレックスからプロレスラーに転向
・ルー・テーズのバックドロップにより、グレート草津は失神KO
・1968年4月6日、国プロに初来日した精悍な風貌のビル・ロビンソン
・スター・レスラーを作れず国プロは崩壊、草津も同じ運命を辿る
・「わし、今もレスラーとは思っとらん。ラガーマンよ」


 グレート草津というプロレスラーがいたことを、今ではどれぐらいのファンが憶えているだろうか。かつて存在した国際プロレスというプロレス団体のエースとして期待されながら、団体の消滅と共に引退してしまった悲運のレスラーとして、オールド・ファンには記憶されている。

 10年ひと昔と言うが、グレート草津が亡くなったのは今からちょうど10年前の2008年6月21日、享年66歳。晩年、グレート草津の名前が甦ったのは、息子の草津賢治が父親の名を継いでグレート草津を名乗り、K-1でデビューした時だろう。しかし、息子も引退し、グレート草津の名は次第に薄くなっていく。

 そもそもオールド・ファンでも、国際プロレスのエースと聞いて、グレート草津を連想する人がどれだけいるだろうか。多くの人はストロング小林と答えるだろうし、小林がアントニオ猪木に挑戦するために国プロを退団した後は、ラッシャー木村がエースと認識する人がほとんどだ。しかし、木村がエースの頃でも、草津は国プロの主力選手だったのである。

 手許に古い百科事典がある。『プロレスリング』の項を引くと、『日本のスター・レスラーとしてジャイアント馬場およびジャンボ鶴田(全日本プロレス)、アントニオ猪木および坂口征二(新日本プロレス)、グレート草津(国際プロレス)らがいる』と書かれている。つまりグレート草津は、ジャイアント馬場やアントニオ猪木と並ぶエースと認識されていたわけだ。
 ちなみに、この百科事典は1976年1月に発行されている。この頃には既にストロング小林は国プロを退団しており、エースはラッシャー木村に移っていた。ただし、初版は1971年で、この時はまだ全日本プロレスや新日本プロレスは旗揚げしていないので、プロレスの項が書かれたのはその間だろう。なお、執筆者はテレビ解説でお馴染み、東京スポーツの故・桜井康雄氏だ。

 百科事典でも国際プロレスのエースと認められながら、スターにはなれなかったグレート草津は、どこからやって来たのだろうか。

ラグビー時代は伝説のロックとして大活躍

 本名:草津正武、1942年2月13日、熊本市生まれ。グレート草津が生まれる僅か2ヵ月前に日本は真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入。日本軍がシンガポールを陥落させた頃に草津は生まれたわけだ。この時はまだ、日本軍が破竹の勢いで連合軍を圧倒していた。
 しかし、草津の成長と共に戦局は悪化、3歳のとき日本は敗戦した。進駐軍が日本を占領し、アメリカ文化がどっと入ってきたのである。

 草津にとって幼い頃の最大の娯楽は映画。その頃の映画館ではニュース映画が流されていて、そこで見たアメリカン・フットボールの映像に草津は心を奪われた。どの方向に転がるのかわからない楕円球に面白さを感じたのだ。
 中学時代は柔道で鳴らした。さらに陸上部の助っ人にも駆り出され、走り幅跳びや投擲競技で実力を示した。体力と運動神経は抜群だったのである。

 中学卒業後は熊本工業高校に入学。アメフトをやりたかったが、当時はアメフト部がある高校など滅多にない。「同じ楕円球だし、似たようなものだろ」とラグビー部に入部。すぐにレギュラーとなり、全国大会にも3度出場した。

 高校を卒業した1960年、草津は九州におけるラグビーの名門、八幡製鐵(現:新日鐵住金八幡製鉄所)に入社する。当時の八幡製鐵は社会人ラグビーでも圧倒的な力を誇っていた。全国社会人大会(現在はトップリーグ発足に伴い発展的解消)では1958年度から3連覇、1961年度は近鉄(現:近鉄ライナーズ)に決勝で惜敗するも、翌1962年度からは4連覇。まさしく八幡製鐵の黄金時代だった。
 そんな強豪チームで草津は、高卒にもかかわらず新人でいきなり頭角を現したのだ。社会人1年目でベスト・フィフティーンに選ばれた。つまり、弱冠18歳で日本を代表する選手になったのである。

 八幡製鐵に入社した直後、草津を訪ねてきた大男がいた。大相撲を引退したばかりの大起(おおだち)である。八幡製鐵ラグビー部に凄い男がいる、という噂を聞きつけて、大相撲に勧誘しに来たのだ。

「キミの体だったら、納谷よりも強くなれるぞ」

 納谷というのは後の大横綱・大鵬のことである。相撲取りの目から見ても、まだ未成年だった草津の身体能力には驚いていたのだ。

 ポジションはフォワード(FW)のロック(LO)。フォワードというのはスクラムを組む8人のことで、ロックはスクラム第二列の2人。スクラムはもちろんラインアウト、モール、ラックでも核となるポジションだ。チーム内で最も大柄でパワーのある選手が務めることが多い。
 草津のラグビー時代の体格は身長189cm、体重93kg。当時の日本人ラガーマンとしては、ロックでも飛び抜けて大柄だ。外国人選手と比較しても遜色ない。現在の日本代表でも、体重さえ増やせばフォワードとして通用する。

▼スクラムを組むフォワード8人はパワーが要。中でも第二列のロックは最も大柄な体格

 しかも草津は大柄ながら、100m11秒2の俊足を誇る。ロックでこれほどの俊足は滅多にいない。
 トライ・ゲッターと呼ばれるポジション、バックス(BK)のウィング(WTB)でも充分に通用する。通常、フォワードは大きくてパワーのあるヤツ、バックスは小柄でも足の速いヤツが務めるポジションだが、草津の場合は大きくてパワーがあって足が速いという、とんでもないラガーマンだったのだ。

 1987年の第1回ラグビー・ワールドカップで優勝した、ニュージーランド代表(オールブラックス)の怪物ウィングと言われたジョン・カーワン(後の日本代表ヘッドコーチ)は192cm、92kgだったが、もし草津がウィングをやっていればオールブラックス並みの選手だったことになる。
 ただ、当時の日本チームの構成では、体の小さな選手が多かったので草津はロックをやらざるを得なかったのだ。

海外への憧れと学歴コンプレックスからプロレスラーに転向

 草津のラグビー時代、キャップは僅かに1。キャップと言うのは、テストマッチに出場した選手に贈られる。
 テストマッチとは国代表チーム同士の真剣勝負のことで、この試合に出場することはラガーマンとして最大の名誉とされる。特に当時はラグビーにワールドカップがなかったので、国代表チーム同士の試合はテストマッチしかなかった。即ち、今よりもテストマッチの価値はずっと高かったのである(現在のワールドカップの試合もテストマッチの一種)。
 日本は弱小国だったため独特の制度を採っていて、日本代表が対戦する外国チームが強ければ代表チームではなくてもテストマッチ扱い、即ちキャップ対象試合としていた。現在の制度では、日本代表でもテストマッチでなければキャップの授与はない。

 草津が唯一のキャップを得たのは21歳のときの1963年のカナダ遠征で、日本代表のロックとしてB.C.カナダと対戦し、33-6で大勝している。B.C.というのはブリティッシュ・コロンビア州のことで、B.C.カナダは事実上のカナダ代表だった。
 この試合に出場した日本代表15人のうち、約半数の7人が八幡製鐵の選手。当時の八幡製鐵がとてつもなく強かったことがわかるだろう。

 キャップが僅か1つというのは物足りない気もするが、当時の日本代表はテストマッチが極端に少なかった。B.C.カナダ戦以前のキャップ対象試合は1959年のオックスフォード大・ケンブリッジ大連合戦、以降のキャップ対象試合は1967年のニュージーランド学生選抜戦だった。いずれもテストマッチではなく、しかも草津が社会人ラグビーをしていたのは1960~64年まで。つまり草津の現役時代、日本代表のキャップ対象試合は1試合しかなかったのである。草津がキャップを1つしか獲得していないのは当然だ。
 今年の日本代表は、6月と11月にテストマッチが計5試合予定されている。もし草津が現在のラグビー界にいれば、たった5年間でも相当なキャップ数を稼いでいたに違いない。

▼テストマッチに出場し、キャップを獲得することは、ラガーマンにとって最高の栄誉

 日本代表としてのキャップ対象試合は1戦のみだったが、八幡製鐵の一員としては何度も海外チームと対戦している。入社半年後には早くも主力選手としてカナダへ遠征し、4勝2敗で勝ち越した。
 日本代表に選ばれる前年の1962年には、ラグビー強国のオーストラリアとニュージーランドに遠征した。八幡製鐵はオーストラリアの地元チームに1敗しただけで、草津はオーストラリア協会からベストプレーヤーに選出されている。ニュージーランドでは3敗したものの、草津は1試合で3トライを挙げるなど大活躍した。豪州・NZ遠征の通算成績は6勝4敗だったという。

 その年にはフランス学生選抜が来日。学生選抜とはいえ、当時の日本代表よりは強かっただろう。フランス学生選抜は7勝1敗1分と日本の各チームを圧倒した。
 日本側が唯一勝ったのは全九州。選手構成は事実上の八幡製鐵と言ってもよく、当然のごとく草津は出場して、全九州は21-6でフランス学生選抜に完勝した。

 海外の大男たちと互角以上に渡り合っていた草津の頭をもたげてきたのは、海外の強豪国で自分の力を試したい、という思いだった。日本の一流プロ野球選手がメジャー・リーグを目指すように、草津もまた、海外で大暴れしたいと切望したのである。
 しかしそれは、叶わぬ相談だった。海外に留学しようとコッソリその国の協会に打診しても、海外の協会は日本協会に身分照会するためバレてしまう。日本協会から草津の海外行き願望を知らされた八幡製鐵は引き留めにかかる。それが何度も続いた。現在と違い、ラグビーにプロなど無い時代である。

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