[週刊ファイト5月17日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼最強と謳われたジャンボ鶴田。才能に恵まれ過ぎた49年間
by 安威川敏樹
・ジャンボ鶴田は唯一無二の『珍しいプロレスラー』
・挫折知らずでファンの共感を得られなかったジャンボ鶴田
・こっちが本職!? バラエティ番組で茶の間を爆笑させたジャンボ鶴田
・長与千種に田代まさしが「千種、パンツ透けてるぞ」
・日本テレビの年末特番で、白雪姫を演じるジャンボ鶴田
・1990年代にジャンボ鶴田人気が爆発
・ジャンボ鶴田の死亡に、アントニオ猪木もショックを受けた
2000年5月13日、鶴田友美ことジャンボ鶴田が49歳の若さで亡くなった。つまり鶴田は、21世紀の世界を見る前に、この世を去ったのである。
師匠のジャイアント馬場が亡くなった僅か1年4ヵ月後に、鶴田も後を追うように逝ってしまった。そして、つい先日の4月14日、馬場夫人である馬場元子さんが亡くなったのも、何かの因縁だろうか。
▼【訃報】馬場元子さん逝去
ジャンボ鶴田は唯一無二の『珍しいプロレスラー』
考えてみれば、ジャンボ鶴田ほどキャッチフレーズが多かったレスラーも珍しいように思う。ギミックを変えたのならともかく、鶴田の場合はデビュー直後の鶴田友美以外は、ずっとジャンボ鶴田で貫き通した。若大将、若き二冠王、善戦マン、怪物、完全無欠のエース、など。思いつくままに並べたが、もっとあるかも知れない。
若い頃からファイト・スタイルはさほど変わらないのに、これだけのニックネームがあるということは、イメージがかなり変わってきたということだろう。『善戦マン』などという侮蔑的な綽名もあれば『怪物』という正反対のキャッチフレーズもある。
▼『ジャンボ鶴田☆三度の夢』
現在でも『ジャンボ鶴田・史上最強説』は根強い。しかも、ジャイアント馬場が獲得したNWA、アントニオ猪木のWWF(現:WWE)と並ぶ世界三大タイトルの一つとされていた、AWA世界ヘビー級チャンピオンにジャンボ鶴田は日本人として初めて君臨したのだ。
誰からも強いと認められ、実績も充分だったのに、なぜか鶴田の人気はイマイチだったのである。普通、ファンから強いと認められたレスラーは、人気が爆発するものだ。強すぎて嫌われるということはあるが、それは悪役人気とも言える。
しかし鶴田には、そんな悪役人気もなかった。もちろん、嫌われていたわけではない。強さ故の人気が出てきたのは、晩年になってからである。
ジャンボ鶴田は、実に不思議なプロレスラーだった。おそらく、どの範疇にも入らないレスラーだろう。これからも、ジャンボ鶴田のようなタイプのレスラーは現れないのではないか。
▼ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の“師弟コンビ”
挫折知らずでファンの共感を得られなかったジャンボ鶴田
ジャンボ鶴田は1951年3月25日、山梨県に生まれた。他に山梨県出身のプロレスラーと言えば武藤敬司がいるが、天才肌を生み出す土壌があるらしい。
他のジャンルでは小林一三(阪急電鉄の創業者)、根津嘉一郎(東武鉄道の初代社長)、早川徳次(東京メトロの創業者)など、なぜか『鉄道王』と呼ばれる人物が多い。山梨県は鉄道網が発達していないのに、彼らは東京や大阪に進出して鉄道王国を作り上げた。
武田信玄を生み出したことでもわかるように、山梨県人はよほどバイタリティーに溢れているのだろう。
その反面、山梨県人はマイペースな人物が多いようだ。悪く言えば協調性に欠けるということか。ジャンボ鶴田にもそれが当てはまる。
中学時代は野球をやっていたが、目が悪くなって『小さなボールが見づらくなった』という理由で、山梨県立日川高校在学中に『ボールが大きい』バスケットボール部に転向。ここでも野球に対するこだわりはあまり感じられない。ちなみに日川高校野球部と言えば、甲子園に何度も出場したことがある名門校である。
しかし、日川高校はバスケットでも名門で、それでも鶴田はたちまちレギュラーとなり、インターハイにも出場した。
▼日川高校時代、バスケットボール部で活躍していた頃のジャンボ鶴田
YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=nJxQi_tmFgs
高校卒業後は中央大学法学部に入学。同学部には同期のミスター・ポーゴ(関川哲夫)がいた。さらには鶴田の2学年上となる、スポーツ・ライターの先駆者的存在である故・山際淳司氏も在学していた。鶴田も相当インテリだったようである。
中大でもバスケット部に入部したが、僅か1年で退部してレスリング部へ転向を決心。理由は『バスケットよりも(選手層が薄い)レスリングの方がオリンピックに出やすい』というものだった。
最初は「レスリングをナメるな!」と入部を断られたが、自衛隊でレスリングの練習を積んでたった1年半でフリー・スタイルとグレコローマン・スタイルの両方で全日本選手権2連覇。今度は名門の中大レスリング部が「ぜひ入部してください」と鶴田に頭を下げる羽目になった。
そして鶴田の思惑通り、1972年のミュンヘン・オリンピックにグレコローマン100kg以上級に出場した。ここまでの鶴田に『挫折』という二文字は浮かんでこない。
五輪後はジャイアント馬場にスカウトされて「全日本プロレスに就職します」とプロレス界入り。アメリカ修業から凱旋帰国後、いきなりジャイアント馬場と組んで、アメリカ修業時代の師匠でもあり外人組エースだったドリー&テリーのザ・ファンクスと対戦するという、破格の扱いを受けた。
しかも、3本勝負の1本ながら人気絶頂のテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪う。まさしく衝撃的な国内デビューだった。
鶴田は若い頃はジャーマンを必殺技としていたが、エースと呼ばれる頃からジャーマンは封印し、バックドロップを決め技とするようになった。その理由として鶴田は「ジャーマンは他に使い手が増えたから」と言い、記者やファンは「背の高い鶴田がジャーマンをやると危険すぎるから」と推測したが、和田京平レフェリーは「ハゲるのが嫌だったからでしょう」と語っている。鶴田の性格からすれば『さもありなん』と言うしかない。