ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㉚原点 その2:たけしプロレス軍団が現在のプロレス界にもたらしたもの[ファイトクラブ]ビッグ・バン・ベイダー

[週刊ファイト3月1日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㉚
 原点 その2:TPG(たけしプロレス軍団)が現在のプロレス界にもたらしたもの


『元気が出るテレビ』プロレス予備校の自然消滅により、プロレスラーへの道が途絶えたかにみえたその時、ビートたけしが新たな構想をぶちまけた! 今度こそプロレスラーになる夢は実現できるのか? 今もプロレス界に伝説を残す『TPG』の真実がここにある!

前回に引き続き、ケン・片谷のプロレスデビューまでのルーツを探る旅、第2弾です!
1987年9月。『天才たけしの元気が出るテレビ』“プロレス予備校”オーディションから、ちょうど2年の月日が流れました。
その頃、オイラは何をしていたかというと…。いまだ志望校に入れず、大学浪人“絶賛二浪中”でした。

生活は完全に夜型となり、家族が寝静まってからも受験勉強に励む毎日。
バブル前夜の今から30数年前、テレビとラジオは若者の生活に欠かせないものでした。
オイラももちろん例外ではありません。その極め付きが、テレビでは『元気が出るテレビ』であり、ラジオではニッポン放送の『オールナイトニッポン』でした。
受験生という立場から、テレビを見る時間は極力抑えていましたが、ラジオは勉強しながらでも聴くことができます。勉強中は、常にイヤホン(ヘッドホンではないところが昭和!)を耳に付けラジオを聴いていました。

深夜1時、オールナイトニッポンが始まる時間になると、それまでレコードを聴いていようがカセットを聴いていようが(笑)、ラジオの電源を入れダイヤルを1242KHzニッポン放送に合わせました。当時のオールナイトニッポンのパーソナリティーには、中島みゆきさんやタモリさん、所ジョージさん、サンプラザ中野さん(当時)、笑福亭鶴光さんらオールナイトニッポン史上まさに黄金期といっていい豪華メンバーが揃っていました!
中でもオイラは、木曜日のパーソナリティー『ビートたけしのオールナイトニッポン』が大好きでした。

当時のたけしさんの人気ぶりは、それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

番組内の人気コーナーには『マヌケなものコーナー』『こんな○○はイヤだコーナー』、中には『動け馬場コーナー』なんてのもありました(笑)。
浪人中の分際で、“ハガキ職人”のまねごとをしたこともありました。ハガキ職人とは、各コーナーにハガキで“ネタ”を送るハードリスナーのことです。ビートたけしさん率いる『たけし軍団』の中には、ハガキ職人からプロになった方がたくさんいらっしゃいます。
番組でたけしさんにハガキを読んでもらった時は、嬉しくて勉強も手につかないほど。もちろんオイラも、『ハガキ職人→たけし軍団入り』というエリートコースに全く色気がなかったわけではありませんが、さすがに“プロの芸人になる”という選択肢はありませんでした。

ある時、たけしさんから“新企画”の発表がありました。これはとても異例のことです。というのも、通常ハガキのコーナーなどはトークの中から突発的に生まれたり、コーナーの中で面白かったものが独立する形で誕生するパターンがほとんどだったので、改めて発表するというのはとても珍しかったのです。
しかも、その企画にはプロレスが関係しているらしいのです。これには思わずオイラも勉強している手を止め、ラジオを聞き入ってしまいました。

たけしさんの口から、聞きなれないアルファベット3文字が発せられました。

『T・P・G』

続けてたけしさんは、「これは“たけしプロレス軍団”の略。オイラがプロレス団体を作る!」と自信満々に言ってのけたのです!
オイラは愕然としました。尊敬するたけしさんが何をバカなことを言ってるんだろうと思いました。
当時のプロレス界は、新日本プロレスと全日本プロレスの2団体しかない時代。国際プロレスが倒産してすでに6年が経過していたし、新興団体の第一次UWFは、団体としての機能を失い新日本プロレスに吸収されていました。
この時代に新たにプロレス団体を作るなんて、いくらたけしさんでも無謀なことくらい誰もが容易に想像しました。
少し呆れ気味に再び勉強を始めましたが、その後もたけしさんの熱い語りはとどまるところを知りません。

「バックには東京スポーツがついている。新人育成のコーチはマサ斎藤さんにお願いしてある。そして、団体のエースに物凄い選手を確保してあるんだ!」
どうやら、たけしさんは本気のようです。
さらに、「TPGは、新日本プロレスに挑戦状を叩きつける!」と豪語したのです!

続いて、新人レスラー募集の告知がありました。
これについてはオイラは黙っていられません。2年前に立ち消えになった“プロレス予備校”はどうなるんだ? あの時オイラは最終選考まで残っているのに。そんなオイラを差し置いて新人レスラー募集とはいったいどういうことだ!?

居ても立ってもいられず、オイラはハガキを書きました。メールもネットも無い時代。番組への連絡手段はハガキしかありませんでした。

ハガキには、『2年前にうやむやとなったプロレス予備校を無視して、団体を旗揚げするとはどういうことか? 友達からはウソつき呼ばわりされた! このまま諦めるわけにはいかない。どうかこの私にもう一度チャンスをください!』と、確かこんな風にたけしさんに訴えたと思います。

迎えた次の木曜日、ドキドキしながらラジオの前に身を置いていると、『TPGのコーナー』で、なんとオイラのハガキが読まれたのです! その時のたけしさんのリアクションは、こんな感じでした。
「そういえばあったなぁ、プロレス予備校(笑)。文句があるなら伊藤さん(テリー伊藤=元気が出るテレビの総合演出)に言ってくれよ! オイラは知らねぇよ! でも、コイツはなかなかいいねぇ。よし! シードということで、来週スタジオに来てもらおう!」
なんと、ラジオのスピーカーを通して、たけしさんから直接スタジオへのオファーがあったのです!

さぁ、大変なことになりました! 当時有楽町にあった、ニッポン放送の『銀河スタジオ』でたけしさんを目の前にして“TPG入団テスト”を受けることになったのです!
放送の翌日から、東京スポーツの紙面では『ビートたけし プロレス大挑戦』のタイトルで連載がスタートしました。もう後へは引けません。

問題は、深夜にどうやってニッポン放送に行くか?
そう、忘れてならないのはオイラが浪人生だということです。
『友達の家で一緒に勉強する』というベタな理由で何とか家を抜け出し、ニッポン放送の銀河スタジオに辿り着きました。
憧れのニッポン放送。銀河スタジオというだけあって、天井がプラネタリウムのようになっていました。

午前1時。いつものオールナイトニッポンのテーマ曲が流れ、いよいよ生放送のスタートです!
『TPG入団テスト』のコーナーは、番組の中盤に始まりました。この日テストを受けたのは、オイラを含めて3人。あとの2人には絶対に負けられません。
“新人レスラー候補生”が1人ずつ紹介されました。どうやら“テスト”というよりも、どれだけプロレスラーになりたいかというアピールを試されるようです。

オイラのアピールタイムの時がやってきました。目の前にはたけしさん、高田文夫さん、そしてたけし軍団の面々がいます。
しかし、アピールタイムで何をしようか、その時点まで全くアイデアが浮かびませんでした。
とっさに、目の前にいたダンカンさんに飛び掛かりました! 両足タックルで仰向けに寝かせ、そのままサソリ固めを決めたのです!
これには、たけしさんはじめ出演者の皆さんもスタッフの皆さんもビックリ! ダンカンさんは苦悶の表情を浮かべ、床を叩いてギブアップしました!

これには、たけしさんもご満悦。よし! このお兄ちゃんは合格!!
即決でTPGへの入団が内定しました! 結果的にアピールは大成功だったのです。

午前3時。放送終了とともに、オイラはスタッフに呼び出されました。今後の予定について打ち合わせがあるそうです。
差しあたって、『翌週の放送で第2次入団テストを行う』『マサ斎藤さんが審査を行う』この2点が告げられました。そこにオイラも来て欲しいということでした。
子どもの頃から夢見たプロレスラーへの道がすぐそこにある。オイラは二つ返事で来週再びニッポン放送に来ることを約束しました。

次の日の夕方、会社にいるはずの父親から電話が掛かってきました。何やらものすごい剣幕で怒っています!
内容はこうです。駅の売店KIOSKで東京スポーツを買おうとしたところ、その1面には予備校で勉強しているはずの我が息子の写真が! これはいったいどういうことか!?

もうお分かりでしょう? 『ビートたけし プロレス大挑戦』のコーナーが、この日は1面に昇格。写真入りで前夜の入団テストの様子がデカデカと報道されていたのです!


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