グレート草津とストロング小林、2人は国際プロレス、悲劇のエース
[週刊ファイト1月4-11月号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル 第29回
2人の悪徳ブッカーに潰された国際プロ
国際プロレスは1度も興行人気が沸騰しないまま81年8月に崩壊した。カリスマ性を持つ日本人エースを輩出できなかったことがその最大要因だが、米マットの悪徳ブッカーの政治力によって歴代のエースをことごとく潰されたのも事実。グレート東郷やバーン・ガニアと結び付いていなければ絶対エースが誕生して同団体の運命は大きく違っていたかもしれない。
バーン・ガニアと筆者である井上譲二氏
日本プロレス界の父でもある力道山が急逝したのは、J・F・ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで暗殺された約3週間後の1963年(昭和38年)12月15日。そして大黒柱を失った日プロは翌週、豊登、吉村道明、芳の里、遠藤幸吉による“トロイカ体制”を発足させたが、豊登新社長らがまず着手したのは法外な外国人レスラー斡旋料を要求するグレート東郷との関係を断ち切ることだった。
それくらい東郷は日プロを相手に悪どいビジネスを続けていた。
吉原功氏もそのことを知っていたはずだが、67年に2シリーズ開催しただけで資金が底をついてしまったため、国際プロレスの経営権はTBSと、同じく出資した三ツ矢乳業の岩田弘社長に渡り団体名も一時的に『TBSプロレス』と改称された。従って東郷にブッカー就任を要請したのは担当プロデューサーの森忠大氏とこの岩田社長だったことは疑う余地はない。
しかし、2人のド素人が渉外のみならず現場(マッチメーク)にも介入したことによって東郷になおさら足元を見られてしまう。