[週刊ファイト12月28日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル 第28回
国際プロの命運を決めたG・草津の歴史的敗北
アントニオ猪木が新日本プロレスを設立する以前、判官びいきのI編集長は超メジャーの日本プロレスと団体歴の浅い国際プロレスをほぼ対等に扱っていた。国際プロの現場、フロントともに『ファイト』の取材に協力的だったこともあるが、I編集長は密かに日プロを脅かす勢力に成長することを願っていた。
地上波TBSのレギュラー放送開始(68年1月)、AWAとの業務提携(70年2月)など国際プロレスに何度かビジネスチャンスがあった。しかし、それらのチャンスを活かせなかった国際プロは後発の新日プロや全日プロにすぐ追い抜かれ、81年8月に空中分解した。15年近く存続しながら1度もブレークしなかった国際プロはまさに“悲劇のプロレス団体”である。
国際プロレスは1966年10月、日プロの元レスラーで現役引退後は同団体の営業部長を務めていた吉原功氏によって設立された団体。設立会見では米国在住のヒロ・マツダとの共同事業という形で発表されたが、マツダはこの新団体に出資せず、選手、外国人招聘窓口として協力しただけだった。
後年、吉原社長はマツダについてこう語っている。
ヒロ・マツダ対ダニー・ホッジ