毒を食らわば皿までも 底無し沼論~井上義啓氏と週刊ファイト 2017-02-16 01:562020-08-26 14:09 ターザン山本, 著者別:復刊本_写真集_教材 ツイート 「行けばわかるさ!」迷わず飛び込め底なし沼へ。06年12月に他界されたプロレス界の神、I編集長こと井上義啓氏に捧げられたオマージュ&トリビュート。ターザン文学至宝の名品が早くもデジタルリマスター! 八百長論 東スポ流ファイト流 タイガー・ジェット・シン特集号 昭和55年 村松友視 底無し沼論〜永久保存の真髄集を堪能せよ! (抜粋) 八百長とは本来は誰かが金銭面で得をするため、外部の人間が勝手に勝ち負けを仕掛けていくことをいう。 それを称して?八百長試合?と呼ぶ。それはわからないようにすることが条件である。 バレたら終わりなのだ。この八百長試合は?賭け?がおこなわれている世界には、よくあることといってもいい。 その八百長試合とプロレスを同じ次元で語ることはできない。なぜならプロレスは?賭け?の対象になっていないからだ。 だから「プロレス八百長論」というのは論理的にはおかしいのだ。だが世間はプロレスを八百長としか見ない。そういう風潮が支配的である。 これは仕方がない。世の中の人はプロレスをスポーツと同じレベルで見ているからだ。でも、考えて欲しい。プロレスには反則攻撃がフォーカウントまで認められているのだ。 そんなスポーツはほかにある? あるはずがない。それだけを考えてもプロレスがスポーツとは一線を画した別物のジャンルであることがわかってくるはずなのだ。 悪役レスラーは凶器を使って攻撃しているのだ。場外では乱闘をしているのだ。流血試合があるのだ。それがプロレスなのだ。 世間の人はそれらを含めて「プロレスは八百長!」と呼ぶ。逆にいうと彼らはプロレスをそんなふうにしか見ることができないのだ。 反則攻撃、場外乱闘、流血試合を楽しめないのだ。私からするとそれって言い過ぎかもしれないが、不幸な気がするのだ。 「ウン、この人たちは一生、プロレスの面白さを理解できないだろうな…」となる。それはそれでかまわない。人には人それぞれの生き方、考え方、見方があるからだ。 別に私は彼ら(世間)に対してプロレスを正しく理解しろというつもりはさらさらない。ただプロレスにはプロレスなりの筋書きはある。 芝居や映画に通じるストーリー展開はある。ただしそれは芝居や映画のように完全な脚本やシナリオがあるのではない。 すべてはリング上のアドリブでおこなわれる。たとえばある日、ある会場で興行があったとする。そこでリングに立って試合をするレスラーは、その時、その場での1回性のアドリブをプロとして求められる。 要はどうすればお客に興奮してもらえるのかである。それを決めるにはその時の季節だったり、会場だったりお客だったりするのだ。 いしかわじゅん先生特別提供原画 このデジタルリマスターは、いしかわ先生のご厚意から実現しました。 錬金術師の三大トリオ。櫻井氏は新聞で第一次報道を担当し、それを受ける形で竹内氏が雑誌で第二次報道をやった。そこまでが正統派である。 そして井上編集長はその第一次報道と第二次報道に?崩し?を入れた。それが第三次報道としての?活字プロレス?のことである。活字プロレスとはプロレスに関しては崩しの技のことだったのだ。 正統派報道と崩しの報道。それがうまくからみあいバランスを保っていることが、プロレス界にとっては重要なことなのだ。 井上編集長が私に「山本君、君もねえ、山本プロレスをやらないとだめだよ」と言ったことがある。 まだ私が新米の記者だった頃の話である。その時、私はこの人は変なことを言う人だなあとしか思わなかった。 いきなり?山本プロレス?といってもそんなこと理解できるわけがない。井上編集長は私のことを当時?花の凡くら記者?と言っていた。 それをまた『週刊ファイト』の誌面に書いていたのだ。別に私はそう書かれたことで気分を害することはなかった。 むしろうれしかった。なんでもいいから自分をアピールすることがあった方がいいからだ。 「だから山本君、なんでもそうだけどさあ、編集長になったら君は君で好きなことをやればいいんだよ。理屈はそういうことなんだよね」。 プロレスのNWFヘビー級のベルトは、それ自体が猪木のためにあった。 猪木プロレスとNWFのベルトはセットになっていたのだ。今のプロレス界を見るとベルトはたらい回しである。次から次へとチャンピオンは入れかわり立ちかわっていく。 そこにはもう?猪木プロレス?のようなことは有り得なくなっている。ひとりのスターに光が集中して当たらないものは、プロレスとは呼べない。言わない。 大衆はスターを求めている。いやスーパースターを欲しがっている。突出したスターのことである。平均点の高いスターは必要ないのだ。 井上編集長がプロレスに見た底が丸見えの世界。お見事である。 マスコミの人間がそこまではっきり言い切ったことに私は感動をおぼえる。それはプロレスを八百長と言っていることと同じだからだ。 だが、しかしである。まだその先があったのだ。突然、その底が丸見えの世界がまったく別のものに見えてしまう瞬間がある。それはプロレスファンにしかできない才能であり感覚なのだ。 井上編集長が一番言いたかったのはおそらくその部分である。 毒を食らわば皿までも 底無し沼論~井上義啓氏と週刊ファイト商品コード tarzanyama005価格 840 円 ウィッシュリストに追加する » 投稿ナビゲーション 宴の痕-ムエタイの深層-「ムエタイ1556キロ 」ある極悪レスラーの懺悔 親父の死、大相撲入門、プロレスとの出会い