昭和プロレスの終焉テリー・ファンク引退『マット界の黙示録』 2017-02-16 01:552020-08-26 13:55 タダシ☆タナカ+シュート活字委員会, 著者別:復刊本_写真集_教材 ツイート IWGPトーナメント猪木ベロ出し失神!闘魂神話の崩壊と入院雲隠れ事件〜「昭和プロレスとは何であったのか」を紐解くシリーズ第4弾。 【抜粋】元アイドルというフジテレビの売り出し戦略によって"セクシー・パンサー"ミミ萩原がデビューしたのは78年だ。「87連敗」というお仕事の記録は、当時の興行日程を鑑みても不滅の偉業である。これはルー・テーズの「936連勝」、ヒクソン・グレイシーの「400戦無敗」ギミックと違い、正真正銘の本物だ。プロレス芸術の底なし沼は果てしない。 ◆年末にロードショーされたのが梶原一騎総指揮のドキュメンタリー映画『四角いジャングル 格闘技世界一』である。新日本プロレスと極真空手の道場論を軸に、猪木、怪鳥ことベニー"ザ・ジェット"ユキーデ、ザ・モンスターマンらは少年たちを熱狂させるに十分な迫力だった。 ■さよならは始まりの言葉〜日米ともに新たなる時代の開幕:83年8月31日の全日本プロ蔵前国技館大会は、「正義の味方の外人」という新しいスター像だったテリー・ファンクの引退興行だった。もちろん周知のように本人は未だ引退、復帰を繰り返している。ただ、この引退劇が日本マット界のひとつの時代の終焉を象徴していたことは間違いない。 ≪地獄のアングル炸裂!≫新日プロはブラジル事業の失敗から、一時的とはいえ社長職も解任され、83年は内外で「いったん猪木が終わった年」として記憶されている。この年に二大英雄が立て続けにフェードアウトした事実は象徴的だ。さらに、猪木に習って、裏切りのゲームに取り込まれていった"過激な仕掛け人"新間寿の失脚と同時期に、彼のパートナーであったビンス・マクマーン・シニアが引退したこともまた興味深い。シニアは二人の息子を生んだ妻とは離婚、戦時中に再婚した後妻とは子どもを儲けなかった。二男のジュニアは長らく隠し子扱いで、南部ノースカロライナの軍基地で継父に虐待されて育ったという。しかし、実父の会社のアナウンサー役のアルバイトから始まって、やがては舞台裏全体を仕切るまでに上り詰めていた。ジュニア政権はまず、若者の人気が浸透していたMTVとの提携でWWFブランドの宣伝に成功、85年からはロック音楽と合体した年に一度のプロレスの祭典「レッスルマニア」をドル箱イベントに定着させていく。 ◆年号としての昭和はまだ続くが、83年(昭和58年)にいわゆる「昭和のプロレス」は終焉した。84年4月、前田明をエースに第一次UWFが見切り発進している。 ■英国ジョイント・プロ「嫁さん募集!KWIK-KIK LEE紹介」パンフ画像。 【実技班コラム】前田日明と悩む「インサイダーとは何か?」 昭和プロレスの終焉テリー・ファンク引退『マット界の黙示録』商品コード tanakatada004価格 315 円 ウィッシュリストに追加する » 投稿ナビゲーション 全選手計量パス!公開記者会見で対戦相手対面!明日決戦!~2・16「Lethwei in Japan 2 ~LEGACY~」6・16第4回日本ラウェイ大会TDCホール開催発表!!『マット界の黙示録☆真正文化史』Special Edition