“三度目の夢”ジャンボ鶴田とその時代

 或いはジャンボ鶴田に関しても幾人ものプロレスラーと等しく、飽くことも無くこれまで様々な有為の場所で書き綴ってきた。僭越ながら筆者においても鶴田は思い出尽きない“鮮烈なプロレスラー”、そのひとりであった。
 故・三沢光晴や川田利明、田上明、小橋建太といった次の世代の盾となり、“怪物”という異名を得たその晩年の勇姿も語るに枚数が尽きないほどであった。が、やはりいま、この時代にあって遡るとしたらやはり赤星のトランクス、“善戦マン”というなんとも当の本人にとってはあまり嬉しくはなかったであろう、そんなあの遠い日の出来事が思い出され、仕方がない。
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鶴田&天龍vs.ニック・ボックウィンクル&ハ―リー・レイス戦(最強タッグ大阪府立体育会館S59.12.11) 翌12日、横浜文化体育館で鶴田&天龍組がハンセン&ブロディ組を降して初優勝。ジャパンプロ勢乱入! 撮影:西尾智幸
 “善戦マン”とはつまり、どんなに好勝負を演じても結局、最後には勝てない者への蔑視的俗称だったわけだが、つまりはそれだけ当時のファン達がプロレスを真剣勝負の場として、たとえ曖昧な感覚の理解であろうとも捉えていたと言う証拠であり、その“純”な感覚には時代性を思わせ、興味深い。
 NWA、AWAといった当時米国にてプロレスマーケットを牛耳っていたエリアにおける世界最高峰と謳われた猛者達と五分に渡り合いながら、最後には健闘空しく引き分けるか敗れてしまう。そんな“ケツ決め”なる暗黙の了解を黙々とこなした鶴田は、けだし名演者でもあっというわけだ。
 アマレスという、鶴田が大学時代において選手層がいくら当時、手薄だからと言ってそう易々と出場とはいかなかったであろうオリンピック代表に選出され、ジャイアント馬場総帥率いる全日本プロレスに華々しく入団。名伯楽の馬場に導かれるように引かれたレールの上を彼は黙々とまるで牛馬のように歩んでいった。プロレスという特殊なジャンルにおける暗黙の了解というベールに戸惑ったはずであり、けれどそんなそぶりをけしてファンの前では微塵も見せずに奔走したジャンボ鶴田という“傑物”。ネーミングが“若大将”から“怪物”に変わっても、そのスタンスの揺らぎは微塵も感じられなかった。
 そんな彼が素の自分に戻る時。そう、それは一己の人間、鶴田友美としての感性を曝け出す時。B型肝炎の発症以後、鶴田はどんな想いで自身を見つめていたことだろう? 大病であった為、プロレスラーという強靭な肉体を誇るとされる職業人の苦悩とあいまってその過酷さは尋常な辛さではなかったはずだ。それでも鶴田は自身に声援を手向けてくれたファンの前ではプロレスラーというファンが抱く美意識を守ろうとした。
 そうなのだ。生前、鶴田はそのおっとりした表情やけっして本音を吐いてはいないのではないのかと思わせる発言振りで一部のファンの反感を買っていたが、大学院入学、教授として教壇に立つという目標を自身に課すことによって、ファンが抱くプロレスラーとしての美学をしっかりと保とうとした。俯いたままの自分では無く、明日を未来を信じ、今日を生きようとする前向きな職業人、そして一個人として。
 B型肝炎はのちに肝硬変となり肝臓癌へと変異し、ますます鶴田を苦しめることになるが、鶴田はまるでファンへ提示した新たな目標こそ自身を高みへと導くステップであると認識してか、大いに勉学に励み、ほどなくして合格という栄冠を得た。筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻。彼は病魔と闘いながら、ファンに提示した“自らに課したハードル”を見事に越えてみせたのである。
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高尾淳『ジャンボ鶴田☆三度目の夢』
 そんな鶴田が大学院入学に関して研鑽に明け暮れていた頃、もっともそのひととなりを目にしてきた人物とは、夫人を除けば『三度目の夢』の著者・高尾淳氏ではないだろうか? 大学を訪れた時の様子、勉学の方法、やり取り、鶴田がその節々で語ったこと、そんな一部始終が手に取るように克明に綴られている。
「では、どうやってまとめればいいのですか? 私がつくばに来られるのは一週間に一度なのですけど…」
「そこが、最大のネックです。でも、やるしかありません。そこで、普段は、ファックスを使って作業を進めましょう」
「ファックスですか?」
「そうです。鶴田さんがまとめた内容を、私の自宅のファックスに送ってください。その内容を私が添削して、送り返します。纏める時点で、解らない用語や内容があれば、それも書いてください。解説して返信しますから」
「なるほど。そうすれば、理解できますね」
「そうです。一週間に一度しか会えない条件では、これ以上の方法はないと思います。そして、筑波に来られた時に、一週間の内容を点検しながら、より理解できるようにしましょう」
「わかりました。なんか、希望が見えてきました」
 鶴田さんの表情に、また輝きが戻ってきた。
「ですが……」
「なんですか?」
「この作業を二か月で終わりたいのです」
「はぁ…二か月ですか…」
 鶴田さんの顔は、輝きと曇りを交互に繰り返していた。失礼ではあるが、表情の変化に失笑してしまいそうになった。
「そうです。つまり、一冊の本を二週間でやらなければなりません。学部生が、半年で学習するところを、二週間で。それも、自主学習とファックスを使った通信教育で」
「はぁ……」
 希望の中に、現実の状況を突き付けられた鶴田さんの顔は、どんどん曇っていったが、そこは、並みの人間ではなかった。プロレス界で頂点を極めた男は、大変だと言われれば言われるほど、逆に燃えてくるという性格を備えていた。
「高尾君。昔、僕が大学生の時、バスケットボールを辞めて、レスリングに転向しようと、中央大学のレスリング部に行ったんですよ。でもね、レスリング部の連中は、『絶対に無理だ』って言うんですよ。練習にもついてこられないだろうし、大学から始めるのは遅いって。でもね、僕は逆に、『無理だ』って言われると、燃えてしまうんですよね。だから、今回も『厳しい』と言われると、燃えてきましたよ!」
(そんなものなのか? 俺だったら、無理と言われれば、本当に無理のような気がするけど)
 鶴田さんは、ペラペラとページをめくりながら、目を輝かせて本を見つめていた。
「それから、二ヶ月後ですが、本の内容を熟知したという想定で、小論文を書く練習をします。私が、過去問題を集めてきますから、過去問題を解く練習をしましょう」
「わかりました。それもファックスですか?」
「そうです。毎日、一問出しますから、解答をファックスで送り返してください。それを、添削してまた送りますから」
「よろしくお願いします。なんか、希望が見えてきましたよ」
 私は逆に、イバラの道が見えてきた。法学部出身の鶴田さんが、二か月で四冊の本を熟知することさえかなり困難な道であると予想されていた。それ以上に、その知識を自分の言葉で表現できるのか? いや、出来るだろう。もし、一年の時間があれば、難無く出来るだろう。
 だが、二人に残された時間は半年間。
不安なのは私だけだったのだろうか。いや、そんな事はない。鶴田さんの不安は、私とは比較にならないほど大きなものだったのだろう。なぜなら、世間の評価や大きな注目を抱えているのだから。
 もし、受験に失敗をしたら、「鶴田はなにやってんだ!」とか、「四十歳過ぎて、無理してんじゃねえよ」とか……。
挑戦の裏には、大きなリスクも抱えていたのだから。
                                     (本文抜粋)
 鶴田が赤星のマークが入ったトランクスを身に着けてファイトしていた時代、“怪物”と称され、のちの“四天王”の盾となっていた時代、大学院に通い、己の病魔と格闘していた時代…… そんな生前の鶴田ファンの誰しもが共存出来た時代もいまは既に闇の彼方にあるようだ。全てはいまや夢物語であるや知れない。
 だが、このような生前のジャンボ鶴田のひととなりを知ることが出来る好読み物に巡り合うとけっしてそれらが夢幻では無かったのだということをしっかりと感じ取ることが出来るのではないだろうか? コメントを寄せておられる夫人もさぞや懐かしさを思い起こしながら本編を読まれたことだろう。
 そう、鶴田は未だ生き続けているのだ。ファンの胸に。密やかに静かに横たえているのだ。黄金期のプロレスの輝きがいまや遠い落雷の、あの光にも似た筋のように微かなものであろうとも、ジャンボ鶴田という“綺羅星”もまたその横でひときわ輝いて見えるはずである。

文筆家・美城丈二