“80’S・プロレス黄金狂時代”Act27「UWFという名の“血塊”」前篇

美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
  Act27「UWFという名の“血塊”」前篇
 {今回は若干、主旨を変えた論考となります。あらかじめ、ご了承ください}
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 第一次UWF(1984年4月~1985年9月)
 第二次UWF(1988年5月~1990年12月)
 UWF(Universal Wrestling Federation)という団体自体が、その誕生にあっていわく付きであったのだ、とはもう皆さんがご存知の通りだ。求めるがままに志を同じくする者達が集って出来た団体だとか、ある一個人を絶対的なエースとして従え、旗揚げした団体だとか、それまでの様々な関係者の思惑が折り重なって出来上がった団体などという、プロレス界にありがちな背景・性格を背負って誕生、スタートを切った団体では無い。
 時のプロレス界の“巨星”ジャイアント馬場のもう一方の雄、アントニオ猪木の一個人における事業の負債がもとで出来上がった団体であると見做(な)す向きも多い。負債返財の為に興行収益が横領されているのではないか?。疑惑を糾弾すべく持ち上がった、俗に言うクーデター計画は志半ばで頓挫し、猪木以下重役級は元の鞘に収まったかに見えたが、失脚した元営業本部長であった新間寿氏が、猪木が動くものと信じ、旗揚げした団体、それがUWFなる団体であった、つまり、クーデター騒動で立場の無くなった猪木の受け皿として作られた団体であった、というのが後世における多くの関係者たちの総意だ。新間氏自身も自らの著作を始め、そこかしこで語っているから、設立における背景なるものは多くのプロレスファンの知ることとなった。
 このクーデター騒動がマスコミを通じ、外へと漏れ出した辺りから、反猪木派の舌鋒(ぜっぽう)は激しさを増し、猪木のそれまで築き上げてきた新日本王国という峻城(しゅんじょう)にも陰りが見え始めてきた。
 つまり、“ミスター・プロレス”とも言うべき絶対的なカリスマ、アントニオ猪木の牙城を少しずつ切り崩すことによって、UWFは新UWFへと移行する段において、ファンの間で巨大化していった。猪木の受け皿として設立したにも関わらず、当の猪木は移籍せず、だが事情を知らされず移籍した前田日明たちが、存続を迫られて、戦術を模索するうえにおいて牽(ひ)いた路線が従来のプロレスを否定すること、すなわちひいては「アントニオ猪木をも否定すること」でもあったのだと思う。 
 前田たちが採った戦術……いわゆる、UWFの“基盤”となったものとは、旧来のプロレススタイルを否定することから始め、ロープに一切、飛ばないだとか、関節技自体で勝敗を決するだとか、これらそれまでには見られなかった、世間の素朴な疑問に応えた形、かつクラシカルなレスリングテクニックをベースにキックを織り交ぜたスタイルを定着させ、またロープブレイク等によってポイント制をも導入したから、プロレスファンに留まらず、多くの格闘技ファンを取り込む結果を生み、皮肉にも猪木は、自身の言わば“隠れ蓑(みの)”的存在になるはずであったUWFなる団体の、そのレスリングスタイルの変異によって、自身のアイディンティティーをも揺るがされる状況を生んでしまった。まさにこれは“アントニオ猪木不要論”まで行き着くのではないか?当時のUWF現象が次第にファンの喝采を浴びつつあるとき、私は素直にそう、思ったことを記憶している。                               (後編へ)
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