村松友視という名の“風”『美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代』

『美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
  
  Act⑬【村松友視という名の“風”、改めての私なりの感慨】
 
 「プロレスというジャンルは極彩色のガラスの破片をちりばめたミラー・ボールの如し。光の当り方、見る角度によって驚くほどさまざまな変化を見せる。」ベースボール・マガジン社刊『男はみんなプロレスラー』拠り。
 リング上、ただ一辺の観客を一瞥する行為にもそのプロレスラーの生き様、背負う業、そんな凄みが内包されており、まさにそれは人間ドラマという壮大なるスペクタクルを一齣として切り取ったかのように映えて見えることだってある。村松友視という一作家が、照射させようとした世界。その切り口は恒にプロレス愛という慈愛に満ちたものだった。
 
 人の一生にたとえるならば悲喜哀感・・・、
 ロープに対戦者をゆっくりと溜めて捻じりあげ飛ばしただけで、さぁ、次の展開は?相手は素直に戻ってくるのか?すかすのか?否、すかした直後にどう、反撃するのか?・・・対戦者の技を敢えて受けて見せる行為によって、凄みとそれらに付随したいくつものドラマが予見される。プロレスというジャンルとはそういうひとの人生をも照射、投影させうることが出来る、大いなる世界なのだと感慨深く見つめ続けて今日までに至ってきた。
 それだけに80年代に世間のまさに“プロレスなんてと言う、邪険な層”をも巻き込むかのように勃興したプロレスブームはいま思い返してみても圧巻でさえあった。
 初代タイガーマスクを軸とする、この壮大なる一大ムーブなるものはそれ以前から多くのプロレスラーたちと接する機会を得てきた筆者としては、どこかほっと肩の荷が下りるかのような安堵感すら覚えるものだったのである。
 幼少期、プロレスなんて野蛮なものさと鼻でフンとあしらわれるかのように邪険に見られていた“格闘ジャンルの鬼っ子”プロレスなるものにスポットがあのB・I共存時代の日プロ末期のち、久方ぶりに当ったのだ。
 ブーム、その当時でさえ様々な識者がそのブームの危うさ自体を揶揄、喚起、批難なされておられたけれど、そんな思いと共に愛すべきリングの“綾”を『プロレス界の“味方”』として果敢に紐解いてくれた識者こそ、村松友視氏でもあったのだと思う。いま、読み返して臨んでも非常に卓越した識見が惜しげもなく披瀝されており、改めて感慨深く感じ留めることができた。
 言わばこれは形を変えた“言葉の真剣勝負”、そう村松氏は文筆分野において世間と真剣勝負を挑んだと解釈して間違いないだろう。こちらの放った一矢が世間という“蔑視”なる層の中核まで深く入り込み突き刺さるや、否や!?まさに真剣そのもの、窮屈、退屈極まりない世間という常識にプロレスという反則4カウントまで許されるという“懐の深さ”なる刃を、“村松流”という「解釈論」で切り開いて見せたのだとも思うのである。
 或る意味、時代の寵児足りえた時代のプロレスというジャンルに“深い、添い寝”が出来た氏を私はいま、殊更に羨ましく思う。
 氏は街頭テレビに映し出された力道山に感性がうごめかされ、のちにかの故・吉行淳之介氏の編集担当者等を経て、執筆の機会が巡り、そんな少年期に感化された力道山の影を追うように、またアントニオ猪木氏の“光と影”をも克明に追われ続けた。その軽やかな、まさに根明な文章体ともいうべき筆致綴りであるにも関わらず、どこか暗く重い質感をも感じることが出来た文章体なるものは、戦後復興期の様々な陰影が氏にもたらした、“負ぶさっていた”、からではないのだろうか?
 ひと、それぞれに思い思いのドラマを空想し、そこに自身の人生、日々哀感を織り込んで読み解こうと計る。これはまさにプロレスというジャンルが持つ特有性に根ざした“擬似体験”、反則4カウントまではOK!!という、懐の深さゆえのものなのだと解釈して私はいま更ながらにプロレスというジャンルを肯定し続けたいものだと思う。
 時代が経過より結果をより性急なくらいに求める時代に入ってプロレスというジャンルも次第にその“時代性”を失い、下降線を辿っていったが、“技を受けて魅せる”という行為に、多種多様化する技の高度化、様々な受身技量の変遷化なるものはあっても、その根底に従えられた“格闘浪漫”なるものは少しも揺るがないものであるはずだと認識してこれからも見続けて参りたい。
 氏の、いまやプロレスというジャンルに対する識見豊かな文章群をリアルタイムで拝読する機会を得られぬ昨今、そのプロレス自体も観客動員不振という、危うい灯の揺らめきを見せてしまっている。
 誠に僭越なる物言いではあろうが、私の書く文章群は氏の識見溢れる文章群とは比するのも恥ずかしいほどの拙文の類、数々ではあろうけれど、私も日々ああでもないこうでもないと空想しつつ、今後も研鑽の心を持って、世間のプロレスに対する蔑視の目に果敢に私なりにささやかなれど抗していきたいと思っている。
 村松友視という名の“風”、それらがプロレスというジャンル自体と共に時代に埋没することが無く、未来永劫において連綿と受け継がれていくものであってほしいと思う、その、もう片方で私もまたその“使命”を持った後世の文筆家なのだという認識を格別身震いしながらも抱きつつ、今後も日々、ふつふつとこの心根に沸きおこるプロレスというジャンルに対する思いの数々をものしてまいりたいと思考して止まない。
 「プロレスとはミラーボールの如し」言いえて妙の、このセンテンスがまた私のいま、今後の後ろ背から温かく、時に優しみを携えて吹き募ってくるようだと信じていたい。「昔は良かった」その繰り言に埋没せぬように。筆者は恒に半歩先を歩んで参りたいと思っている。
 *いつもながらにご支持、ご声援の筆者宛てメール、誠に有難うございます。この場をお借りし、深謝致します。
 ⇒ミルホンネット刊・美城丈二著作