[ファイトクラブ]A猪木vs.モハメド・アリに喝! プロレスに造詣が深かったハリさん

[週刊ファイト9月24日期間] [ファイトクラブ]公開中

▼A猪木vs.モハメド・アリに喝! プロレスに造詣が深かったハリさん
 by 安威川敏樹
・幼少期の被爆から差別体験、壮絶だったハリさんの野球人生
・好きなメシを腹いっぱい食えると『東映の暴れん坊』の一員に
・ハリさんのケンカ強さと出自が生んだ、力道山との強固な縁
・首位攻防戦そっちのけで猪木vs.アリに見入ってしまったハリさん
・日曜日の朝はハリさんの『喝!』と『あっぱれ!』
・「日本での記録保持者は私ですよ!」イチローの新記録にもイチャモン
・『戦争を知らない子供たち』に絶句したハリさんが伝えるメッセージ


 9月9日、元プロ野球選手の張本勲氏が亡くなった。享年86歳。張本氏は通算3085安打というNPB史上最多安打を記録し『安打製造機』の異名をとった。また腕っぷしが強く、プロレスや格闘技にも造詣があったのだ。
 本文中は敬称略とするが、張本氏に関しては親しみを込めて『ハリさん』と呼ばせていただく。

▼しし丸YouTubeタダシ☆タナカの真『アントニオ猪木vs.モハメド・アリ』

[ファイトクラブ]しし丸YouTubeタダシ☆タナカの真『アントニオ猪木vs.モハメド・アリ』

幼少期の被爆から差別体験、壮絶だったハリさんの野球人生

 ハリさんは1940年6月19日、在日コリアン2世として広島市に生まれた。太平洋戦争が始まる前年である。
 5歳の時、米軍が広島に原子爆弾を落とし、ハリさんは被爆した。また、この時にハリさんは6歳上の姉を亡くしている。

 終戦前の4歳の時、ハリさんは右手に大火傷を負い、右手の指が不自由になった。さらに、在日コリアンとして差別に逢い、終戦後は父親の不慮の死により一家は極貧生活を強いられる。
 そんなハリさんを救ったのが野球だった。広島へ遠征にやってきた読売ジャイアンツ(巨人)の宿舎を覗くと、大柄な選手たちが銀シャリ(白米)やステーキを美味そうに食っている。まだ白いメシすらまともに食えない時代だった。

 大金を稼いで美味い物を腹一杯食い、母親を楽にさせるためにはプロ野球選手になるしかないと決心する。右手が不自由だったため左投げに代え、バットを握るのにも苦労したが懸命な努力で中学時代は中心選手となった。
 後の話となるが、プロ野球選手として実績を残したハリさんの右手を見て、『打撃の神様』こと川上哲治は「こんな右手であれだけヒットを打ったのか」と驚いたという。

 ただ、野球で頭角を中学時代だったが、差別を受けた怨念が高じてケンカに明け暮れるようになった。それが災いし、ハリさんは甲子園へ行くため地元の名門校である広島商業や広陵高校へ進学したかったものの、素行の悪さが問題になって入学を断られたのである。
 やむなく地元の無名高校の定時制に進学したハリさんだったが、大阪の名門・浪華商業(現:大体大浪商高校)への転校を希望するようになった。最初は、そんなカネは無いと家族に反対されたが、ハリさんの熱意に負けて、兄がなけなしの給料から学費を工面してくれたのである。

 ハリさんが高校三年の夏、浪商は念願の甲子園出場を決めた。ところが暴力事件が発覚、浪商は甲子園出場が許されたものの、ハリさんは暴力に加わったとして休部処分となる。
 しかし、ハリさんは事件に全く関わっていないと主張。ここでも韓国人として差別され、夢だった甲子園出場も妨害されるのかと絶望した気分になった。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり。まだドラフト制度が無い時代、高校卒業を前にして複数のNPB球団が入団交渉にやってきた。最終的に中日ドラゴンズと東映フライヤーズ(現:北海道日本ハム ファイターズ)が残り、契約金は中日が600万円、東映は200万円と誠意では中日が遥かに上だったが、ハリさんは花のお江戸で一旗揚げたいと、東京を本拠地とする東映への入団を選ぶ。
 当時の東映は、ケンカがメシより好きな猛者ばかりで、東映のお家芸だった仁侠映画よろしく『東映の暴れん坊』と呼ばれていた。まさしくハリさんにピッタリのチーム・カラーだったのだ。

 プロ入りしたハリさんはたちまち主力打者となってヒットを量産、パシフィック・リーグで7度も首位打者となった。これはイチローと並ぶNPBタイ記録である。
 ただ、守備はヘタだった。右手が不自由なため、フライをしっかりと取れない。1975年、パ・リーグはDH制を採用し、指名打者となったハリさんは守備の負担こそなくなったものの、本人は「野球選手は守備にも着かないといけない」と指名打者を拒んでいたという。

 時代は変わりつつあった。映画は斜陽産業となり、東映は身売りされ日拓ホーム フライヤーズに、さらに僅か1年でまた球団売却となって日本ハム ファイターズに生まれ変わる。
 ほのぼのした家庭の食卓を支える企業の日本ハムにとって『東映の暴れん坊』というイメージは良くない。日本ハムはチーム・カラーを一新すべく、フライヤーズ生き残りの暴れん坊たちを次々と放出する。もちろんハリさんも例外ではなかった。

 1976年、ハリさんが移籍した先は巨人。日本ハムから捨てられたハリさんだったが、幼少の頃からの憧れのチームに入団できるとあって、むしろラッキーに思った。
 ハリさんは同学年の王貞治とOH砲を組み、前年に球団史上初の最下位という屈辱を味わった巨人を、劇的な優勝へと導く。翌年も巨人は優勝して2連覇、ハリさんは優勝請負人となった。

 しかし、力が衰えたハリさんは1980年、ロッテ・オリオンズ(現:千葉ロッテ マリーンズ)へトレードされる。ロッテのオーナーも在日コリアンということで、ハリさんは韓国プロ野球(KBO)発足に尽力した。
 1982年、韓国に初のプロ野球リーグが誕生。1981年にハリさんが引退した翌年のことだった。

▼ハリさんは広島で生まれ育ち、この地で野球を始める

ハリさんのケンカ強さと出自が生んだ、力道山との強固な縁

 前項でも書いたように、ハリさんはケンカっ早い。浪商時代、ハリさんは『大阪でケンカがいちばん強い』と言われ、その噂を聞き付けケンカを吹っ掛けようとする荒くれ者もいた。
 だが、ハリさんはそのケンカを買おうとしない。当たり前である。ケンカなんてすれば甲子園出場はパァになるし、何よりも放課後は野球部の練習に明け暮れていた。ケンカをする暇なんてなかったのだ。それでも、本人曰く濡れ衣により甲子園の土を踏めなかったのは皮肉だったが。

 ハリさんにケンカを売ろうとしたのは、後に力道山門下生となった琴音竜。だが、琴音竜はプロレスが勝ち負けを決められたショーであることを知って幻滅し、プロボクサーに転向する。
 力道山が建設したリキ・スポーツパレスにはボクシング・ジムがあった。琴音竜は東日本ミドル級新人王に輝いたが、そんな男に目を付けられるほどハリさんはケンカが強かったのだ。

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 琴音竜も実は在日コリアン。ハリさんと出自が同じということで、琴音竜は対抗心を燃やしたのである。
 そして、力道山も朝鮮半島出身で、ハリさんがプロ野球選手になってからは親交があった。ケンカが強かったハリさんは当然のことながら、プロレスや格闘技に興味があったのである。

 力道山道場で自主トレーニングを行っていたというハリさん。そんなハリさんを力道山は弟のように可愛がったという。
 ただ一つ、ハリさんは力道山に対して不満があった。朝鮮出身であることを隠していたことだ。ハリさんは母親から「朝鮮民族として誇りを持って生きろ」と言われていたので、長らく日本には帰化しなかったのである。

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