[ファイトクラブ]1980年代の甲子園を席巻した池田のパワー野球は力道山が作った?

[週刊ファイト9月17日期間] [ファイトクラブ]公開中

▼1980年代の甲子園を席巻した池田のパワー野球は力道山が作った?
 by 安威川敏樹
・高校野球に革命を起こした池田、その秘密はレスリングが起源
・先見の明があった力道山、あらゆる施設が整ったリキ・パレス
・力道山はプロレスの将来まで見据えた実業家、それが仇となった
・当面はないものねだりになるが……、それでも欲しい自前の常設会場


 最近、興味深い書物を手にした。『監督、神になる』(田中仰:著、文藝春秋)という本である。1980年代の高校野球で猛威を振るった徳島県立池田高校、その監督だった蔦文也に関して書かれた単行本だ。
 当時、圧倒的な力で甲子園を席巻した池田の影に、力道山の存在があったというのである。

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高校野球に革命を起こした池田、その秘密はレスリングが起源

 池田高校。50代以上の人なら野球に興味はなくても、この校名を知らない人はいないだろう。池田は1970年代から80年代にかけて、最も人気があった高校と言っていい。
 池田の甲子園での戦績は、春夏合わせて優勝3回、準優勝2回、準決勝進出3回。これらは全て1970年代~80年代に集中している。正確に言うと1974年から1987年まで、僅か14年間だ。

 池田が全国にその名を轟かせたのは1974年春。センバツに初出場した池田は、部員が僅か11人ながら決勝に進出した。決勝で報徳学園(兵庫)に1-3で惜敗したものの、たった11人で準優勝したことにより『さわやかイレブン』と呼ばれ一気に知名度が上がる。
 5年後の1979年夏にも決勝進出。春夏連覇を達成する箕島(和歌山)に逆転負けしたものの、イレブン旋風の時のような判官贔屓ではなく『徳島に池田あり』を印象付けるような強さだった。

 そして何と言っても1982年夏。当時は人気絶頂だった荒木大輔投手を擁する早稲田実業(東京)と準々決勝で対戦し、14-2で池田が圧勝する。早実から池田へ、甲子園の主役が入れ替わった瞬間だ。決勝でも名門の広島商業を12-2で圧倒し、池田は甲子園初制覇を達成した。
 翌1983年春も他校を蹂躙し続けて、史上4校目の夏春連覇。ちなみに夏春連覇はこの時の池田を最後に、どの高校も成し遂げていない。

 同年夏にも甲子園に出場し、史上初の夏春夏3季連続優勝も間違いなしと思われていたが、1年生コンビの桑田真澄&清原和博を擁するPL学園(大阪)に0-7で完敗、夢は潰えた。
 しかし、この時期に池田人気は最高潮に達しており、四国の観光コースに池田高校が組み込まれたほどだ。何しろ四国のド田舎にある公立高校が、私学の強豪校を力で捻じ伏せてきたのである。人気が出ないわけがない。

 そして、老将の蔦監督の存在が大きかった。帽子の端から白髪をなびかせ、小細工なしでイケイケドンドンの采配を振るう。その攻撃的な作戦は『攻めダルマ』と呼ばれた。
 池田のパワー野球が高校野球に革命を起こしたのだ。無死で出塁すれば無条件で送りバントという甲子園戦法を、蔦采配は覆したのである。

 そのパワー野球の礎を築いたのが、レスリング経験者の高橋由彦氏だった。野球経験は中学までという高橋氏は、蔦監督にウェート・トレーニングを採り入れるよう進言する。
 当時の野球界、特に高校野球ではウェート・トレーニングは忌み嫌われていたのだ。ヘタに筋力を付けると筋肉が邪魔をして、野球の動きが鈍くなると思われていたのである。

 しかし、高橋氏はウェート・トレーニングの重要性を説き、蔦監督も受け入れた。学校の近所に肉料理を格安で提供してくれるレストランがあり、ウェート・トレーニングと食事によって池田のパワー野球が完成したのだ。
 では、高橋氏はどこでウェート・トレーニングを学んだのか? それは大学時代に通っていたリキ・パレスである。266ページもある同書に、プロレス関係の言葉はこの1ヵ所しか出て来ない。

先見の明があった力道山、あらゆる施設が整ったリキ・パレス

 リキ・パレスとは何か? 正式名称はリキ・スポーツパレスと言い、力道山が創設した総合スポーツ施設である。
 東京の渋谷にリキ・パレスが竣工したのは1961年。力道山が亡くなったのは1963年で、高橋氏は1947年生まれのため、大学時代に通っていたということは早くても1965年となる。つまり、力道山の死後だ。高橋氏はリキ・パレスのサウナでゴルフ経営者と出会い、それが縁でゴルフのアシスタント・プロになってサーキット・トレーニングを学び、レスリングに活かしたらしい。高橋氏がリキ・パレスのサウナに通わなければ、池田のパワー野球も誕生しなかったわけだ。

 リキ・パレスはどんな陣容だったのか。まず、メインとなるのは日本プロレスの試合場だ。3千人を収容するという、常打ち会場としては申し分ない大きさで、実際に日プロの試合が何度も行われた。さらに、プロ・ボクシングにも貸し出したという。
 もちろん、日プロの道場や事務所も同ビル内に構えた。日本プロレス協会、日本プロレス興行、日本プロレス・コミッションという、日プロの中枢がリキ・パレスに集約されたのである。

 一般人が利用できる施設として、前述のサウナにボウリング場、レストランやキャバレー、他にもボクシングにボディー・ビルのジム、さらに花嫁学校もあった。
 なぜ花嫁学校まであったのかは不明だが、これからは女性の時代と見越してのことだったのだろうか。ボディー・ビルのみならずボクシングのジムもあったのは、力道山が本気で日本人ヘビー級ボクサーを育てようとしたからだろう。

 この豪華なビルを保有していたのは、力道山が興した会社のリキ・エンタープライズだ。力道山が凄いのは、単なるプロレス会場だけではなく、他にも商売できる施設を作ったことである。
 いくらプロレスの常設会場と言っても、地方遠征の時は稼働しない。そこでボクシング界に会場を貸し出したり、一般客を集めるような店を作ったりして、ペイできる体制にしたのだ。

 これは最近のプロ野球(NPB)の球場に見られるような、単に野球を見せるだけではなく様々な施設を作って集客を図る、ボールパーク構想に通ずるものがある。それを今から65年も前に実現させたのだから、力道山には先見の明があったのだろう。

力道山プロモーション宣材より

力道山はプロレスの将来まで見据えた実業家、それが仇となった

 しかし、思いがけない出来事が起こった。1963年、力道山が若くしてこの世を去ったのである。オーナーを失ったリキ・エンタープライズは、利益を出す前に高額な負債を背負うことになった。
 また力道山は、リキ観光開発株式会社という企業も経営しており、神奈川県の相模湖にゴルフ場を含むレジャー施設を建設するために広大な土地を購入していた。これらも全て借金で賄われていたため、百田家には多額の債務が降りかかってきたのである。

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