奇才SMGことスクリーミング・マッド・ジョージ逝去 SFXメイク映画バンド

背景画もLOUD PARKのTシャツ・デザインもスクリーミング・マッド・ジョージ作品

【訃報】スクリーミング・マッド・ジョージ 逝去のご報告

大阪出身の世界的特殊メイクアップアーティスト、
スクリーミング・マッド・ジョージが69歳で逝去。
ハリウッドで活動し、大阪芸術大学客員教授として後進育成にも尽力

特殊メイクアップアーティスト、造形作家、映像作家、ミュージシャン、教育者として国内外で活動したスクリーミング・マッド・ジョージ(Screaming Mad George)が、2026年2月、69歳で急逝いたしました。ここに生前のご厚誼に深く感謝申し上げるとともに、謹んでご報告申し上げます。
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 スクリーミング・マッド・ジョージは、1956年大阪府生まれ。18歳で画家を志し、単身ニューヨークへ渡り、スクール・オブ・ビジュアルアーツにてファインアートを学びました。在学中にはパンクロックバンドを結成し、作詞・作曲・ボーカルを担当。音楽、身体表現、視覚表現を融合させたシアトリカルなライブ表現を追求するなかで、独学により特殊メイクの技術を習得しました。

 その後、特殊メイクの第一人者であるリック・ベイカー氏に、自ら制作したショートフィルムを送り、その才能を認められてカリフォルニアへ渡りました。地道な下積みを経て頭角を現し、自身が手がけたモンスタースーツが高く評価され、1986年にプロデビューを果たしました。

 以降、ハリウッドに日本人としては初となる自身の工房を構え、映画、ミュージックビデオ、舞台、空間演出など、ジャンルの枠にとらわれない独自の表現を国内外で展開しました。その作品は、特殊メイクや造形という技術領域にとどまらず、音楽、映像、肉体、空間を横断する総合的なアートとして、多くのクリエイターやファンに強い衝撃を与えました。
 音楽活動にも精力的に取り組み、1992年には日本武道館で開催された『EXTASY SUMMIT 92』に、SCREAMING MAD GEORGE & PSYCHOSISとして参加しました。自らのミュージックビデオ制作のほか、他のミュージシャンの作品の監督やプロデュースも手がけるなど、音楽と映像を自在に横断する活動を展開しました。

 一方で、ハリウッドの厳しい映画産業のなかでは、アーティストとしての才能だけでなく、経営者としての手腕も問われました。約20年にわたるハリウッド時代には、浮き沈みもあり、順風満帆な時期ばかりではありませんでした。弟子たちに食事を提供し、従業員の給料を支払うと、自らの給料を数か月にわたり受け取れないこともありました。それでも、その後に良い仕事が立て続けに入ることも多かったといいます。

 休みは半年にわずか1日か2日、日頃の睡眠時間も平均3、4時間という生活が何年も続きました。そのような日々を支えていたものについて、本人は「責任感」だと語っていました。

 その強烈なビジュアル表現から、しばしば「ホラー」の文脈で語られることもありましたが、本人の創作の核にあったのは、シュールレアリズム、すなわち超現実主義でした。グロテスクそのものを目的とするのではなく、現実の向こう側にある異形の美、生命の変容、想像力の深層を追い求めた表現者でした。

 帰国後は、大阪芸術大学にて客員教授を務め、後進の育成にも力を注ぎました。生徒一人ひとりと真摯に向き合い、時にはユーモアを交え、時には厳しく叱咤しながら、妥協を許さない姿勢で指導にあたりました。その根底には、生徒たちがどの分野へ進んでも一人立ちできるようにという、強い信念と深い愛情がありました。

 また、合気道を経てロシア武道「システマ」に取り組み、インストラクター資格を取得。大阪芸術大学にシステマ愛好会を立ち上げて指導にあたるなど、身体表現と教育の分野にも深く携わりました。

 2019年には大阪・あべのハルカスにて個展『特殊幻視覚アートショー スクリーミング・マッド・ジョージ展』を開催し、約2,000人が来場しました。2025年10月には東京で個展『Special Hallucinogenic Art Show:スクリーミング・マッド・ジョージ幻視覚アートショー』を開催し、同年12月には東京コミコン2025にも出展しました。長年の友人やファンとの再会を喜びながら、晩年まで作品を通じて人々と向き合い続けました。

 2024年頃より体調を崩し、脚が不自由となり、車椅子での生活となりました。脚の痛みやしびれ、間質性肺炎、数々の体調不良と向き合いながらも、アートへの意欲が衰えることはありませんでした。自身の身体よりも生徒を優先し、大学へ足を運び続けました。

 2026年2月、入浴後に意識不明となり、心臓が停止しました。家族が救急隊からの電話による指導のもと懸命な対応を行い、一命を取り留めました。その後、救急搬送され、ICUにて治療を受けました。4日間、家族が寄り添い続けましたが、意識が戻ることなく、安らかに息を引き取りました。

 スクリーミング・マッド・ジョージは、アーティストとして強烈な個性で異彩を放ち、見る者の想像を超える世界を創出し続けました。一方で、その素顔は明るく気さくで人情味にあふれ、天才と称されながらも決して努力を惜しまない人物でした。その飾らない人柄は、出会った多くの人々を魅了しました。

 これまで彼の音楽や作品を愛してくださったファンの皆さま、支えてくださった仲間、友人、生徒の皆さま、ともに仕事に携わってくださったすべての方々に、心より御礼申し上げます。
 スクリーミング・マッド・ジョージは、これからも作品の中に、そして出会ったすべての人々の記憶の中に、生き続けてまいります。

 本来であれば、速やかに皆さまへご報告すべきところ、突然の別れを受け、ご遺族の心の整理に時間を要しましたこと、また日米の関係者にて慎重な協議を重ねてまいりましたことから、このたびのご報告となりました。お知らせが遅くなりましたことを、心よりお詫び申し上げますとともに、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 なお、一周忌にあたる時期に「お別れの会」を執り行う予定です。詳細につきましては、改めてご案内申し上げます。

以上

スクリーミング・マッド・ジョージ 友人代表
西村源一郎


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 驚きを飛び越えてショックなニュースを知ったのが本日になる。
 なにしろボク(タダシ☆タナカ)とはニューヨークはマンハッタン時代からの友人であり、アパートにも行き来していた。TVにも出ていた当時からSMGを名乗っていたので学生時代からファンとして顔を知っていたとはいえ、最初に直接出会ったのは現地在住となった1982年のニューヨークの地下鉄車内だった。「ジョージさんですか?」と声をかけてみたからだ。

 当時のニューヨーク、やはり基本的には企業から派遣された社員とその家族が日本人コミュニティの軸である。会社の勤務時間ではない昼間の地下鉄で日本人を見たら、そりゃ繋がるってもんだ。念のため手元のパソコン・ドキュメントを検索してみたら、[昭和プロレスの終焉テリー・ファンク引退『マット界の黙示録』]にも、ジョージさんとの地下鉄車内での出会いを自分で書いていた。

 当時MSGではWWF(まだ東部地区のローカル団体)の定期戦が毎月第四月曜夜にあり、同年8月30日にはタイガーマスクvs.ダイナマイト・キッドの米国初登場があった。当然にボクは、今も本誌のジョージ・ナポリターノ、当時はより親しくしていたビル・アプターらと並んでリングサイドで写真撮っているが、裏では故・新間寿さんのかばん持ちボーイ役割でもある。「チーズケーキを食って下痢した」と、トイレに籠ってしまった佐山さんを呼びに行かされたのはボクなのだった。

 ジョージさんとの話はもちろん映画や音楽である。正規の単独監督作品となった『Boy in the BOX』が世に出たのは2005年になってしまうのだが、その80年代の初期頃から詳細にストーリー展開と映像アイデアを聞かされていた。なのでお互いが日本に戻って、映画館で見たとき、20年前のアイデアとまったく同じだったのに驚いた。よく宣伝文句として、「構想●年」というキャッチフレーズが使われるが、証人になってもいい。あれはガチに「構想20年」の執念の作品なのだった。

 プロレス・格闘技の専門媒体になる当Webのサイト内検索だと、ロシア武術システマ絡みが出てくる。高田馬場で青空教室をやっていた。システマのビデオは沢山借りたりもしたんだが、ボクにとっては音楽や映画の話のジョージさんである。オジー・オズボーンの♪Bark at the moon(1983)の特殊メイクも彼なんだが、裏話的には時間がかかりすぎて「撮影が始まらない」と怒られて・・・(笑)。ブライアン・ユズナの監督デビュー作である『ソサエティー』(1988)の、ジョージさんが担当したセグメントは”奇才”としか評しようがない。
 本誌の業界に戻るなら、バンド”THE MAD”の何度目かの日本での再結成LIVEに行ったら、そこのセキュリティーをしていたのがケン・片谷だったとかもある。思い出話はつきない。