[ファイトクラブ]テキサスの若馬★ドリー・ファンク・ジュニアを偲んで・・・藤井敏之より有難う

★日本のプロレスに多大な影響を与えたドリー・ファンク・ジュニア氏
[週刊ファイト8月20日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼テキサスの若馬★ドリー・ファンク・ジュニアを偲んで・・・藤井敏之より有難う
 by 藤井敏之
・ドリー・ファンクJr.氏の訃報に寄せて―A猪木との名勝負が刻んだ新時代
・ドリーさんが全日本マットで見せた輝きと変化
・日本での全盛期1975年、オールラウンドレスラーとしての頂点
・日本・欧州・米国の頂点―ドリー・ファンクJr.氏への感謝と哀悼


▼日米を股にかけた偉大なるグレート・テキサン、ドリー・ファンクJr.

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▼ブッチャー引退によせて!猪木とドリー・ファンクjr『名勝負は永遠に』

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▼名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア

日本のプロレスに多大な影響を与えたドリー・ファンク・ジュニア氏

NWA世界王者時代の雄姿(昭和44年12月2日・大阪府立体育会館)
 現実を受け止めることは厳しいが、あのドリー・ファンク・ジュニアの訃報が8月5日の早朝に舞い込んできた。

 間違いなくプロレスにのめり込んだのは、昭和44年12月2日、大阪府立体育会館で行われたNWA世界戦、NWA世界チャンピオン、ドリー・ファンク・ジュニア対アントニオ猪木戦であった。

 超越した二人のアスリートが阿吽の呼吸で互いの技を出し合い、60分ノーフォール・フルタイムドローの素晴らしい試合を展開した。それまで直線的な試合しか見ていなかった関西のファン、そしてテレビで観戦した全国のプロレスファンは、新しい時代のヌーヴェルヴァーグ的な試合を目にして、感動と興奮を覚えた。

 翌年は場所を福岡に移し、ドリーがテキサス・ブロンコ・スープレックスで猪木から1本先取。2本目は猪木が必殺ジャーマン・スープレックスでタイに持ち込み、3本目は前年同様、時間切れ引き分けとなる。さらに盛り上がる決着戦。

 その機会はすぐに来た! 1971年12月9日、大阪で、猪木はその年の春にジョン・トロスから奪取したUN選手権も懸けたNWA世界タイトルとのダブルタイトルマッチと決定。

 しかし状況は急変。アントニオ猪木は日本プロレスから追放されるという事態になり、その対決は夢物語となる。

ドリーさんが全日本マットで見せた輝きと変化

一世風靡したドリー&テリーのザ・ファンクス

 その後、アントニオ猪木は新日本プロレスを立ち上げ、ドリーはジャイアント馬場が立ち上げた全日本プロレスに協力する立場となり、袂を分かち合ってしまう。

 その後も二人の3度目の対決を夢見ながらプロレス界の動きを見続けるのだが、全日本プロレスのドリーのファイトを見ながら夢を託せられたのは、正直、1965年末に行われた世界オープン選手権試合が最後であったと断言できる。

 翌年の1976年からドリーの来日は約2年ほど遠のく。そして1977年末の世界オープン・タッグ選手権大会シリーズに弟テリー・ファンクとザ・ファンクスとして参戦。最終戦の蔵前国技館で行われたザ・ファンクス対史上最強悪タッグコンビ、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークとの一戦は、テリーがフォークでブスブスと腕を突き刺される大流血戦となり、ファンクスが優勝を達成。この試合からテリーの人気が大爆発し、反面、ドリーは自らのスキルを温存し、あくまでテリーの保護役に回るのである。

 その後の来日においてもファイトスタイルは変貌し、かつての輝きが徐々に失われていった。ライバルであるアントニオ猪木もテレビに映るドリーのファイトを見ては、「彼の今のファイトぶりでは戦う気持ちが遠のく」と明言している。

 ただし、1975年末までの全日本マットでのドリーのファイトは素晴らしかった。特にNWA王座を失ってからは肩の荷がなくなり、よりパフォーマンスが素晴らしくなった。

 1974年1月27日、東淀川で時のNWA王者であるジャック・ブリスコに挑戦し引き分けたが、試合内容ではドリー有利を感じさせた。


A猪木との再会を喜ぶドリー・ファンク・ジュニア氏

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