TOP画像:藤井敏之記者
[週刊ファイト8月13日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼ドリー・ファンクJr.死去 NWA世界王者として一時代を築き、日本にも多大な足跡
編集部編
・“グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニアさん死去
・国内外から惜別の声が続々 WWE、新日本プロレス、天龍源一郎ら
・世界中のファンが惜別 「永遠のザ・ファンクス」と追悼の声が広がる
・「グレート・テキサン」が日本プロレスへ残した偉大な足跡
・ドリー・ファンク・ジュニアさんが遺した「Never Quit」の精神
▼日米を股にかけた偉大なるグレート・テキサン、ドリー・ファンクJr.
▼ブッチャー引退によせて!猪木とドリー・ファンクjr『名勝負は永遠に』
▼名勝負は永遠に アントニオ猪木vsドリー・ファンク・ジュニア
“グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニアさん死去

写真:藤井敏之記者と共に
1970年代から1980年代にかけて世界プロレス界を代表する正統派レスラーとして活躍し、日本でも「ザ・ファンクス」の兄として絶大な人気を誇ったドリー・ファンク・ジュニアさんが、2026年8月4日、アメリカ・フロリダ州オカラで85歳の生涯を閉じた。WWEが公式に訃報を発表し、「影響力のあるレスリングトレーナー」であり「WWE殿堂入りメンバー」として、その偉大な功績を称えながら哀悼の意を表した。夫人のマーティさんによると、ドリーさんはホスピスケアを受けていた最中に静かに息を引き取ったという。2023年に79歳で亡くなった弟テリー・ファンクさんに続き、プロレス史に燦然と輝くファンク一家の最後のレジェンドも旅立つこととなった。
1941年2月3日、インディアナ州インディアナポリスで生まれたドリーさんは、後にテキサス州アマリロへ移り住み、父ドリー・ファンク・シニアの厳しい英才教育を受けながらレスラーへの道を歩んだ。ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボール選手として活躍し、1962年のサンボウル優勝にも貢献。大学卒業後の1963年にプロレスデビューを果たすと、わずか半年後には当時のNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズと60分時間切れ引き分けという快挙を成し遂げ、一躍将来を嘱望される存在となった。
そして1969年2月11日、フロリダ州タンパでジン・キニスキーを破り、第46代NWA世界ヘビー級王者に戴冠。当時28歳での王座獲得は史上最年少記録であり、その後はルー・テーズ、ジャック・ブリスコ、ビル・ロビンソン、ミル・マスカラスら世界最高峰の強豪を相手に防衛を重ね、1973年5月にハーリー・レイスへ王座を明け渡すまで4年3カ月という歴代2位の長期政権を築き上げた。この記録は半世紀以上が経過した現在でも色褪せることのない偉業として語り継がれている。
日本との縁も非常に深かった。1969年に日本プロレスへ初来日すると、アントニオ猪木との60分フルタイムドローは現在でも歴史的名勝負として語り継がれ、その後はジャイアント馬場、坂口征二らとも激闘を展開。1974年からは旗揚げ間もない全日本プロレスへ主戦場を移し、弟テリー・ファンクさんとの兄弟タッグ「ザ・ファンクス」を結成すると、その人気は爆発的なものとなった。特に1977年世界オープンタッグ選手権決勝で、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの極悪コンビを相手に、不屈の闘志と兄弟愛を見せつけて優勝した一戦は、日本プロレス史に残る名勝負として今なお語り草となっている。
ドリーさんの代名詞といえば、何と言っても必殺技スピニング・トー・ホールドである。相手の足首を執拗にねじり上げるこの関節技は、日本のファンに強烈な印象を残し、ロックバンド・クリエイションが同名楽曲『スピニング・トー・ホールド』を制作したことで、レスラーの入場テーマとしても社会現象的な人気を獲得した。また、エルボー・スマッシュ、ダブルアーム・スープレックス、ブレーンバスターなど基本技を徹底的に磨き上げた試合運びは「正統派レスリングの教科書」と称され、多くのレスラーが手本とする完成度の高いファイトスタイルを築き上げた。
現役引退後もドリーさんはリングを離れることなく、フロリダ州オカラで「Funking Conservatory」を開設し、後進育成に情熱を注いだ。カート・アングル、エッジ、クリスチャン、ジェフ・ハーディー、マット・ハーディー、ミッキー・ジェームズら世界的スターを育成したほか、日本でもジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、西村修ら数多くの名選手へ技術を伝授。2009年には弟テリーさんとともに「ザ・ファンクス」としてWWE殿堂入りを果たし、2013年には第4代PWF会長へ就任するなど、生涯を通じてプロレス界へ多大な貢献を続けた。そして2024年には83歳という史上最高齢で電流爆破マッチへ出場し、西村修とのタッグで大仁田厚&雷神矢口組を破るという最後までリングに立ち続けた姿は、まさに「Never Quit」の精神そのものだった。ドリー・ファンク・ジュニアという名前は、これからも世界プロレス史に燦然と輝き続けることだろう。
国内外から惜別の声が続々 WWE、新日本プロレス、天龍源一郎ら

ドリー・ファンク・ジュニアさんの訃報が伝えられると、世界中のプロレス界から追悼のメッセージが相次いだ。WWEは公式声明で「伝説的なファンク・レスリング一族の一員」であり、「影響力のあるレスリングトレーナー」とその功績を称え、「家族、友人、そしてファンの皆様へ心より哀悼の意を表します」とコメント。現役時代の功績だけでなく、引退後に数多くのスター選手を育成した指導者としての存在も高く評価し、世界最高峰団体として最大限の敬意を示した。
WWE最高コンテンツ責任者のトリプルHも自身のSNSで追悼コメントを発表。「ダブルクロス牧場からWWE殿堂まで、ドリーのスタイルは数え切れない選手に影響を与えた。リングでの功績だけでなく、何十年にもわたる育成者としての功績も計り知れない」と投稿し、レスラーとしてだけではなく、世界中のプロレスラーを育て上げた教育者としての偉業を称賛した。また、カート・アングルは自身がフロリダのFunking Conservatoryで指導を受けた経験を振り返り、「レスラー、コーチ、そして素晴らしい人間として真のレジェンドだった」と感謝を述べ、エッジ(アダム・コープランド)、クリスチャン、マット・ハーディー、ミッキー・ジェームズら教え子たちも恩師との思い出を次々と投稿した。
リック・フレアーは「Great and I do mean GREAT Dory Funk Jr.」「ファンクと組む機会があったら生涯のチャンスだった。プロレスとファンクは同義語」と最大級の賛辞を送り、ショーン・マイケルズ、ジェイク・ロバーツ、ミック・フォーリー、ウィリアム・リーガル、コーディ・ローズ、テッド・デビアスら世界の名レスラーたちも、それぞれドリーさんとの思い出や指導への感謝を発信した。リング上での技術、人柄、そして後進育成への情熱という3つの側面を称える声が圧倒的に多く、世界中のレスラーから心から尊敬されていたことが改めて浮き彫りとなった。
日本でも追悼の輪は瞬く間に広がった。新日本プロレスは公式サイトで「日本のプロレス界にも絶大な影響を与え、『グレート・テキサン』と呼ばれたレジェンド」と紹介し、1969年の日本プロレス初来日からアントニオ猪木、ジャイアント馬場との名勝負、「ザ・ファンクス」として日本マット界を席巻した功績を振り返った。また2001年東京ドーム大会で実現したザ・ファンクス対藤波辰爾&ボブ・バックランドという夢のカードにも触れ、「謹んで、ドリー・ファンク・ジュニアさんのご冥福をお祈りいたします」と追悼した。さらに8月6日の後楽園ホール大会では、タイガー服部さんが遺影を持ってリングへ上がり、棚橋弘至社長や所属選手が見守る中で追悼10カウントゴングが捧げられ、場内にはテーマ曲「スピニング・トー・ホールド」が流れると大きな拍手が巻き起こった。