[週刊ファイト2月5日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼G馬場に関する永遠の命題「馬場さんは本当に強かったのか?」
by 安威川敏樹
・馬場さんが亡くなって早くも27年
・世界の巨人をジャイアント解剖! 馬場さんの飲む・打つ・買う
・馬場さんって本当に強いの? プロレスを見始めた頃の疑問
・馬場さんの評価が一変した伝説の試合
・16文キックの威力をまざまざと見せ付けた、意外なバラエティー番組
今年の1月31日を以って、ジャイアント馬場が亡くなってから27年経つ。月日が流れるのは早いものだ。馬場さんの訃報なんて、つい数年前のことのようにしか思えない。
なお、本稿では基本的に敬称略だが、馬場さんに対してだけは『さん』付けで呼称する。元子夫人ではないが、やはり馬場さんは馬場さんだ。『馬場さん』という呼び方が一番しっくりくる。

▼名勝負は永遠に!ジャイアント馬場対アブドーラ・ザ・ブッチャー
世界の巨人をジャイアント解剖! 馬場さんの飲む・打つ・買う
本名:馬場正平。1938年1月23日、新潟県三条市に生まれる。1999年1月31日没、享年61歳。死因は大腸癌の転移による肝不全だった。
プロレス入りは1960年4月、22歳の時。身長209㎝、体重135㎏という巨体から、後にジャイアント馬場というリング・ネームが与えられる。
主なタイトル歴(シングル)はインターナショナル・ヘビー級、PWFヘビー級、NWA世界ヘビー級。特にNWA世界ヘビー級は当時世界最高峰のタイトルとされ、馬場さんは日本人として初めて戴冠するだけではなく、3度も同王座に就いた。
日本プロレス時代はインターナショナル、全日本プロレス設立以降はPWFが馬場さんの代名詞的ベルトとなる。また、日プロで開催されていたワールドリーグ戦は史上最多の6回優勝、全日でのチャンピオン・カーニバルではやはり史上最多となる7回の優勝を果たした。
特技:野球、絵画。野球に関しては言わずもがな。新潟県立三条実業高校を2年で中退し、プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)に入団。しかし、一軍登板を果たすも未勝利のまま引退し、プロレスの世界に飛び込んだ。
それでも二軍では2年連続で最優秀投手に輝くなど活躍した。だが、右肘痛もありプロ入り5年目で戦力外通告。翌年はテスト生として大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)のキャンプに参加するも、風呂場で転倒して大怪我を負ったためプロ野球を断念する。
高校一年時、馬場さんの足に合う大きなスパイクが無かったため、野球部には入らず美術部に入部。特に馬場さんの描く油絵は芸術的で、38歳でプロレスを引退してハワイで油絵を描きながらノンビリ暮らすことを夢見ていた。ただ、本格的に絵画の基礎を習ったことがないという負い目から、プロの画家に自分の油絵を見せるのは嫌がったという。目利きに見られて絵の基本が出来ていないことがバレるのを恐れていたそうだ。
また、ピカソの絵の良さが判らなかったようで「ピカソより普通にラッセンが好き」だったのかも知れない。
趣味:麻雀、ゴルフ。麻雀はかなり強く、連盟から5段の称号を受けたほどだ。本人曰く、セオリー通りの綺麗な麻雀だそうで、メンタンピン系(リーチ、タンヤオ、ピンフ)の役を好んでいたのだろう。
アメリカに行くと、ラスベガスのカジノで一晩中遊ぶのが好きで、案外ギャンブラーなのかも知れない。しかし、プロレス経営では決してバクチは打たず、石橋を叩いても渡らないタイプだった。ライバルのアントニオ猪木がプロレスでも次々と大バクチを打っていたのとは対照的である。
馬場さんのゴルフは巨体に似合わず、小技が得意だったという。小刻みに寄せていって確実にグリーンに乗せ、スコアをまとめる。ゴルフには性格が現れるというが、馬場さんの場合はまさしくそれだった。
とはいえ、あの巨体だ。ドライバーがパターに見えてしまうのはご愛敬。
好物:葉巻、コーヒー。葉巻は馬場さんのトレード・マークと呼べるもの。元々は紙巻きタバコを吸っていたが胃に穴が開いたため、煙を吸い込まない葉巻に換えたところ、胃の穴が塞がったとか。試合後、ホテルのロビーで葉巻をくゆらせながらコーヒーを飲むのが、馬場さんにとって何よりも楽しみだった。
酒は基本的に呑まないが、呑めないわけではなく「いくら呑んでも酔わない」から呑む意味がないらしい。若手時代、力道山からジョニ黒の一気呑みをさせられたという。馬場さんはモルモン教徒だが、戒律で禁じられている酒・タバコ・コーヒー等の嗜好品を全て経験していた。
好きなテレビ番組:水戸黄門。毎回、水戸光圀が最後に印籠を出して悪人を懲らしめるパターンは同じだったものの、内容を少しずつ工夫して変えることにより、視聴者を飽きさせない。これはまさしく、馬場さんのプロレスそのものである。
馬場さんは高倉健のことを「水戸黄門には出演していない」という理由だけで『名俳優』ではなく『無名俳優』扱いしていた。
買う:キャデラック。馬場さんは親友のブルーノ・サンマルチノからキャデラックをプレゼントされ、それ以来ずっと同じ色のキャデラックを買い替えていたという。

馬場さんって本当に強いの? プロレスを見始めた頃の疑問
馬場さんで最も感動的なエピソードと言えば、自らの正体を隠しザ・グレート・ゼブラとなって、孤児たちのために尽くすタイガーマスクを助けたことだろう。
しかし、タイガーマスクは馬場さんの声で正体に気付かなかったのだろうか?
もちろん、これはアニメ『タイガーマスク』での話。高額な優勝賞金のために(孤児を救うためだが)自分を裏切ったタイガーマスクを助けた馬場さんの姿を、涙なしで見ることはできない。
それはともかく、筆者が初めてプロレスを観たのは、馬場さんがエース兼社長だった頃の全日本プロレス。それまではプロレスのプの字も知らないプロレス・オンチだったが、土曜日の夕方5時半から読売テレビ(関西だったので)で放送されていた全日本プロレス中継の虜になった。
当時の筆者が知っていたプロレスラーと言えばジャイアント馬場、アントニオ猪木、アブドーラ・ザ・ブッチャー程度しかいなかったので、「アントニオ猪木はなぜいないのだろう?」と不思議に思っていたものだ。その後、プロレス好きの近所の兄ちゃんから「猪木は金曜夜8時の6チャンネル(朝日放送)に出てるで」と聞かされた。その時、初めてプロレス団体は複数あることを知ったのである。
プロレスの魅力に引き込まれながら、誰もが持つであろうプロレスに関する疑問にブチ当たった。「プロレスって本当に真剣勝負なの?」と。
ブルーザー・ブロディのように素人目にも一目で強いと思わせるプロレスラーもいたが、あまりにもオーバーに倒れたり、あるいは「志村~、後ろ、後ろ!」と言いたくなるような反則に気付かないレフェリー(もちろんジョー樋口)がいたりと、明らかに過剰演技だった。
当然、『プロレス=八百長』という説が頭をもたげてくる。特に、馬場さんに関しては全盛期を過ぎていた頃であり、こんなスローモーな動きで本当に強いのかな? と思っていた。
そして、最大の疑問。16文キックって、実際には効いていないんじゃないの?
キックと言ったって、馬場さんが上げた足に相手レスラーが当たって来るだけ。足が大きいだけで、これと言った技というわけではない。
なぜ16文キックで相手は倒れるのだろう? なぜ16文キックでピンフォールを奪えるのだろう??
だが、馬場さんが本当に強いと思える出来事があった。1981年12月13日の東京・蔵前国技館、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦となるザ・ファンクスvs.ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカでスタン・ハンセンが突如乱入した。当時のハンセンは全日本プロレスのライバル団体である新日本プロレスのエース外国人として大活躍していただけに、まさしく大事件だったのである。
ハンセンはテリー・ファンクにウエスタン・ラリアットを浴びせて、ブロディ組の優勝を手助けした。試合終了後、馬場さんとジャンボ鶴田が乱入してハンセンと激しくファイトしたのだ。
当時の筆者は、完全なハンセン・ファン。あんな動きの遅い馬場(ここは敢えて呼び捨てにします)なんて、ハンセンの前にはイチコロや、と思っていたのである。
ところが、馬場は凄い迫力でハンセンに脳天チョップを打ち込んだ。そのスピードたるや、いつものユーモラスな動きとは無縁だった。しかも、猪木を何度も窮地に追い込んでいたハンセンが、馬場に対して完全に劣勢となったのである。馬場って、こんなに強かったのか……。
年が明けて1982年2月4日の東京体育館、全日に正式参戦したハンセンと馬場さんが初の一騎打ち。ここでもハンセンが圧倒的有利という下馬評だった。そして、多くの猪木&新日信者が、ハンセンのラリアートによって馬場がなぶり殺しにされることを期待していたのである。
ところが、馬場さんはいきなり16文キックでハンセンをダウンさせた。さらには32文ロケット砲まで繰り出す。