[ファイトクラブ]怪童・豊登道春よ、永遠にリングの王者であれ!12月激戦史

[週刊ファイト01月01日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼怪童・豊登道春よ、永遠にリングの王者であれ!12月激戦史
 編集部編
・1963年の名勝負:豊登&G東郷vs.イリオ・ディパオロ&バディ・オースチン
・豊登が沈み、東郷が倒れた夜―1963年12月3日 大阪6人タッグの記憶
・豊登道春、覆面魔王を倒す夜:1964年12月4日 WWA世界王座奪取の真実
・豊登道春:不屈の怪童が刻んだプロレス黄金伝説


▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第68回
 長嶋や王と同じくらい有名なのにスター意識のカケラもなかった豊登

[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第68回 長嶋や王と同じくらい有名なのにスター意識のカケラもなかった豊登

1963年の名勝負:豊登・G東郷 vs. イリオ・ディパオロ・バディ・オースチン

 年の瀬12月は、プロレスの現在地を確認すると同時に、昭和という時代を振り返るには最もふさわしい季節である。本稿では、豊登が刻んだ昭和プロレスの記憶を、改めて掘り起こす。

日本プロレス黄金時代を象徴する伝説のタッグ戦

 現在、古い試合もYouTubeで公開されており、この一本のモノクロ映像が、昭和プロレスファンの間で静かな話題を呼んでいる。1963年12月2日、日本プロレス協会(JWA)による国際選手権シリーズ第7戦で行われた、
豊登道春・グレート東郷
vs.
イリオ・ディパオロ・バディ・オースチン
のタッグマッチである。

 3本勝負、試合時間21分14秒。結果は日本チームが2-1で勝利。この一戦は単なる好カードではなく、日本プロレス黄金時代の空気をそのまま封じ込めた歴史的試合として、今あらためて見直されている。

力道山時代の終章に刻まれた一戦

 この興行が行われた1963年12月、日本プロレスは最盛期にあった。力道山を頂点とするJWAは国民的娯楽となり、外国人レスラーとの対抗戦は連日テレビ中継されていた。

 しかし、この日が力道山最後のテレビ中継興行となったことを、当時の誰が予想できただろうか。13日後、力道山は凶刃に倒れ、日本プロレス界は一気に暗転する。その直前のリングで行われたこのタッグ戦は、結果的に「黄金時代の最後の余韻」を刻んだ試合となった。

 会場は東京・代々木体育館。メインイベントでは力道山 vs ザ・デストロイヤーが控えていたが、このタッグ戦もセミメイン級の扱いで、大きな注目を集めていた。

豊登と東郷、日本プロレスを支えた二人

 豊登道春は、力道山の右腕とも言える存在で、相撲出身の体格と実戦的なレスリングを武器に、日本側の屋台骨を支えていた。後年の紆余曲折を思えば、この時期はまさに全盛期であり、外国人レスラーに一歩も引かぬ堂々たる立ち居振る舞いを見せている。

 グレート東郷は、日本プロレス随一のコメディ要素を担ったレスラーである。柔道技を交えた投げや、絶妙な間での転がり方、観客の笑いを理解した動きは、まさに職人芸。この試合でも、リング全体のリズムメーカーとして重要な役割を果たした。

 ディパオロとオースチン、愛すべき悪役たち

 対する外国人チームも個性派揃いだ。イリオ・ディパオロは屈強な体格を持つ一方、表情や動きにユーモアがあり、「憎めないヒール」として観客の感情を巧みに操った。

 バディ・オースチンは荒々しいファイトスタイルで知られるレスラーで、後に世界王者にもなった実力者である。この試合ではディパオロの補佐役に回りつつ、日本チームを追い込む役割を担った。


笑いと緊張感が同居したリング

 試合内容は、現代的な視点で見ればコメディ色が強い。しかし、それは決して軽いものではない。
豊登とディパオロによるシーソー式ピンフォールの応酬、東郷の大外刈り、オースチンの荒い攻撃。観客を笑わせながらも、勝敗への緊張感は失われていない。

 3本目に入ると空気は一変し、豊登が力強い攻撃で流れを引き寄せ、日本チームが決着をつける。エンターテインメントと勝負の両立こそ、当時の日本プロレスの真骨頂であったことがよく分かる。

 今だからこそ見る価値がある

 YouTubeに残されたこの映像は、画質こそ荒いが、リングサイドの熱気や観客の反応は鮮明だ。コメント欄には「子どもの頃に見た記憶が蘇った」「今のプロレスにはない空気がある」といった声が並ぶ。

 力道山の死によって終わりを告げた時代。その直前に行われたこの試合は、日本プロレスが最も輝いていた瞬間の一つであり、同時に儚さも内包している。

昭和プロレスの入口として

 豊登&グレート東郷 vs. ディパオロ&オースチン。この一戦は、昭和プロレスを知る者にとっては懐かしく、知らない世代にとっては格好の入口となる試合である。

 派手な演出や高速展開とは無縁だが、そこには「プロレスとは何か」という原点が確かに存在している。
 昭和のリングに刻まれた物語を、今あらためて噛みしめたい。

▼『プロレスの日』に日本プロレスリング連盟の公式サイト開設!

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豊登が沈み、東郷が倒れた夜―1963年12月3日 大阪6人タッグの記憶

1963年12月3日 JWA大阪府立体育館

力道山&豊登&グレート東郷 vs. ザ・デストロイヤー&バディ・オースチン&イリオ・デパオロ
~黄金時代の喧騒と予兆の夜~

 この試合は、日本プロレス協会(JWA)が開催した「インターナショナル・チャンピオンシリーズ」の一環として、大阪府立体育館(現・エディオンアリーナ大阪)で行われた60分3本勝負である。メインイベント級の扱いで記録に残る一戦だが、残念ながらフル映像は現存しておらず、当時の新聞記事やレスリング・データベースに残されたテキスト資料が、現在の主な手がかりとなっている。

 それでも各フォールの時間や決まり手を追っていくと、この試合が単なる6人タッグではなく、力道山最晩年のシリーズに漂い始めていた「終わりの気配」を色濃く映し出していたことが見えてくる。総試合時間は約27分。結果は外国人チームの2-0完封勝利であり、とりわけ豊登が地獄固めで沈んだ第1フォールは、この試合を象徴する場面であった。

時代と興行の文脈:力道山「最後の大阪遠征」

 1963年12月当時、日本プロレスは戦後プロレスブームの絶頂期にあった。力道山が率いるJWAは、アメリカやカナダのトップ外国人レスラーを招聘し、「インターナショナル・チャンピオンシリーズ」として全国各地を巡業していた。

 12月3日はそのシリーズ第3戦であり、大阪府立体育館は満員の観衆を集めた。この6人タッグは事実上のメインイベントとして組まれ、後世の視点から見れば、この日が力道山にとって「最後の大阪遠征」となった興行でもある。

 わずか12日後の12月15日、力道山は新宿で刺傷を負い、帰らぬ人となる。興行直前、力道山は「日本プロレスを世界一にする」と語っていたと伝えられているが、リング上ではすでに疲労の色も見え始めていた時期であった。

 外国人チームは徹底したヒールワークで観客の反感を煽り、場内はブーイングと「力道山コール」が交錯する異様な熱気に包まれていたと記録されている。

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