[週刊ファイト9月10日期間] [ファイトクラブ]公開中
▼ウルフ・アロンは成功するのか!? 柔道出身プロレスラーの系譜
by 安威川敏樹
・柔道家レスラーの命運を決めた? 木村政彦の力道山戦での惨敗
・柔道出身者で最も成功した坂口征二も、実質的には№2止まり
・日本人の夢を打ち砕いたヘーシンクも、プロレスには対応できず
・五輪金メダリストでありながら、猪木に投げられて惨敗したルスカ
・木村政彦の無念を晴らし、プロレスラーに復讐した柔道家
今年のプロレス界で最大の話題と言えば、ウルフ・アロンの新日本プロレス入団だろう。言うまでもなくウルフは、2021年の東京オリンピックで柔道100㎏級の金メダルを獲得した人物。日本人の五輪金メダリストのプロレス入りは史上初だ。
それだけに期待が高まる反面、心配もある。ウルフは本当に、プロレスに順応できるのか? と。他の格闘技で大成功しながら、プロレスラーとしては全くダメだった選手が多いからだ。
そこで、過去の柔道出身プロレスラーの系譜を見てみたい。と言っても、中学や高校で柔道部だったレスラーは多いし、大抵の男子は高校の体育の授業で柔道ぐらいは習っているだろう。
今回、取り上げるのはオリンピアンもしくは日本選手権で優勝したなどの実績を残した柔道出身者に限る。したがって、武藤敬司や橋本真也のように、オリンピックや世界選手権に出場するほどではなかった選手については、今回は触れない。

▼五輪金のウルフ・アロン新日本プロレス入団!1・4東京ドームデビュー
柔道家レスラーの命運を決めた? 木村政彦の力道山戦での惨敗
柔道出身プロレスラーとして真っ先に名前が挙がるのは木村政彦だろう。柔道時代は『木村の前に木村なく、木村の後に木村なし』とまで称された柔道家だ。木村の時代はまだ柔道はオリンピック種目ではなかったのでオリンピアンではないが、もし五輪種目だったら間違いなく出場していただろう。
そんな木村が日本のプロレス黎明期に、プロレスラーに転向。日本で初めて本格的にプロレスがテレビ放映された日に、力道山とタッグを組んでシャープ兄弟と闘ったのはあまりにも有名だ。
しかし、その後の木村は力道山と袂を分かち国際プロレス団(後の吉原功が興した国際プロレスとは無関係)を設立。日本プロレス協会の力道山とは対立関係になる。
そして1954年12月22日、力道山との一騎打ちで壮絶なKO負けを喫した。この試合は、事前の打ち合わせで引き分けだったものの、その約束を力道山が一方的に破ったと言われるが、事実として残るのは血みどろになってリング上に横たわる木村の姿であって、これにより木村の柔道家としての名声は一気に吹き飛ぶことになる。
この試合はプロレスラー日本一決定戦というだけではなく、もう一つ注目されたのは『柔道と相撲、どっちが強い?』ということだった。結果は、相撲出身の力道山が柔道出身の木村に圧勝。
柔道史上最強の男と言われた木村が、相撲では最高位が関脇に過ぎない力道山に惨敗したということで、柔道のイメージまで低下させることになる。村松友視は自著『私、プロレスの味方です』で、この時の木村の完敗が後の柔道出身プロレスラーに負の遺産を与えた、と論じていた。
この試合は、まだ日本でプロレスとはどういうものか、あまり知られていなかった頃の悲劇とも言える。力道山は言わば『やったもん勝ち』になったのだが、敗れた木村はプロレスの内幕を暴露したものの、大した話題にはならなかった。負け惜しみとしか思われなかったのである。
ただ、木村はショーマン・シップを否定していたわけではない。木村はプロレスラー転向前にプロ柔道を興したが、プロと名乗る以上はファンを楽しませなければいけないという考え方で、講道館で禁じていた技を解禁し、さらには見栄えの良い投げ技を重視するという興行方針を示した。つまり、木村はプロレスラーとしての素養があったわけで、力道山戦での惨敗がなければプロレス界でも成功していたかも知れない。
木村は、力道山が暴力団員に刺されたことが原因で死亡した時「犯人は俺だ。俺の呪いで力道山を殺したのだ」と語っていたが、もちろん木村が殺人罪に問われることもなく余生を過ごした。
木村が本当の意味で、プロレス界に復讐したのは木村の死後の平成の世になってから。そのことについては、後に述べるとしよう。
▼木村政彦に壮絶なKO勝ちした力道山

柔道出身者で最も成功した坂口征二も、実質的には№2止まり
2人目の登場は、やはり坂口征二である。しかし、坂口もまたオリンピアンではない。
1964年の東京五輪では柔道が正式種目になったものの、次の1968年メキシコシティ五輪では除外。さらに次のミュンヘン五輪では柔道が復活するが、坂口は年齢的にミュンヘンまで待てなかったのか1967年に日本プロレス入りする。もしメキシコで柔道が採用されていたら、五輪に出場していたに違いない。なにしろ坂口は、1965年の全日本選手権で優勝していたのだ。
柔道日本一の実績を引っ提げて、鳴り物入りでプロレスラーとなった坂口はたちまち頭角を現し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ日プロ第三の男となる。身長196㎝、体重125㎏という日本人離れしたスーパー・ヘビー級に、誰もが期待したのだ。
ただ、残念なことに坂口には馬場や猪木のようなスター性がなかった。さらに真面目な性格が災いし、自分がトップに立ってやるという野望もあまりなく、馬場や猪木の引き立て役に甘んじていたのである。
▼永遠の№2だった荒鷲、坂口征二~マット界をダメにした奴ら
1971年12月、日プロは会社乗っ取りの容疑で猪木を永久追放。その後、猪木は新日本プロレスを設立した。翌1972年10月には馬場が日プロから独立して全日本プロレスを興す。
坂口は日プロの繰り上げエースとなったが、スター性のなさは如何ともし難く、日プロはジリ貧となる。
坂口は、同じ明治大学出身のマサ斎藤(レスリング部)の仲介で猪木と会い、新日入りが決定。旗揚げ当初の新日は定期テレビ放映がなく綱渡り経営だったが、坂口の新日入りによりそれまで日プロを定期放送していたNETテレビ(現:テレビ朝日)が新日へ鞍替え、新日は息を吹き返した。一方、日プロは最後の頼みの綱だった坂口とテレビ放映を失い、あえなく崩壊する。
倒産寸前だった新日を救ったのは、間違いなく坂口だった。坂口が日プロに居座ったまま、あるいは馬場の全日に参加していたら、今の日本のプロレス界は全く違う形になっていただろう。
新日に移籍してからも坂口は、ずっと猪木の№2に徹していた。そのため、インパクトは薄かったのだが、猪突猛進の猪木に堅実な坂口が付いていたからこそ、新日は業界№1であり続けたのだろう。猪木が参議院議員になった後、坂口が新日の社長に就任したが、坂口社長時代が新日にとって最も安定していた時代だったと言われる。
プロレスラーとしての実力はもちろん、経営者としても坂口はプロレス界で最も成功した柔道出身者と言っても過言ではない。

日本人の夢を打ち砕いたヘーシンクも、プロレスには対応できず
次は本物のオリンピック金メダリスト、アントン・ヘーシンク(オランダ)だ。ヘーシンクは1964年の東京五輪で、柔道の無差別級として出場し、見事に金メダルを獲得。
当時はまだ、現在のようにジュード―が世界的に有名な競技だったわけではない。日本開催ということで、柔道が特別に男子のみ五輪の正式種目となったのだ。しかも、前述のように次の1968年メキシコシティ五輪では不採用となり、復活するのは1972年のミュンヘン五輪である。
東京五輪では地元開催でのお家芸ということで、当然の如く日本中が柔道での日本勢の金メダル総ナメを期待していた。事実、当時行われた4階級のうち3階級は日本勢が独占したものの、肝心の無差別級で神永昭夫がヘーシンクに袈裟固めで一本負けしたのである。
元々柔道は相撲と同じく、体重別ではない格闘技だった。しかし、柔道を世界に広めるためボクシングのように体重制を採り入れたのだ。したがって日本では、真の柔道最強を決める無差別級で金メダルを獲らないと無意味、と思われていたのである。
だが、現実は日本人の神永が、外国人のヘーシンクの巨体とパワーの前に屈してしまった。それは、柔道日本の看板を汚すと共に、柔道の基本的技術と言える『柔よく剛を制す』を根底から覆したのである。当時の日本人は、相当落胆しただろう。
しかしその反面、ヘーシンクの金メダルはジュード―が世界的競技として発展するキッカケにもなった。2大会後のミュンヘン五輪で柔道競技が復活したのもその現れだし、現在では日本人と言えども簡単にメダルを獲れなくなるほどレベルも上がり、世界的な格闘技となっている。
東京五輪での金メダル獲得後もヘーシンクは柔道で活躍し、坂口征二やウィリエム・ルスカも破った。まさしくオランダの英雄となったヘーシンクは引退後、イタリア映画にも出演している。
そして1973年、39歳の時にヘーシンクはプロレスラーに転向。日本テレビと契約し、デビューは全日本プロレスのマットだった。
東京・蔵前国技館でジャイアント馬場と組み、ブルーノ・サンマルチノ&カリプス・ハリケーンと対戦。ハリケーンからアルゼンチン・バックブリーカーでギブアップを奪い、初陣を飾った。
その後も若手時代のスタン・ハンセンやボブ・バックランドを破るなどスター待遇を受けたが、柔道の癖が抜けなかったためプロレスに馴染めず、試合運びのヘタさばかりが目立つ。
結局、ヘーシンクは大した活躍もできないまま1978年に引退した。馬場からの評価も「ヘーシンクはプロレスに対応する気もなく、日テレが契約したから仕方なく使っていただけ」とかなり厳しい。元々、他の格闘技で大成功を収めた者はプロレスをナメてしまう点があるうえ、ヘーシンクは39歳という高齢でのプロレス転向が災いしたのかも知れない。
結果的に、ヘーシンクにとってプロレス転向は黒歴史だったのだろう。プロレス引退後は柔道の世界に戻り、指導者として活躍、さらに国際柔道界の要職にも就いた。日本では反発の大きかったカラー柔道着を推進したのもヘーシンクである。
▼アントン・ヘーシンクとジャイアント馬場のタッグ

五輪金メダリストでありながら、猪木に投げられて惨敗したルスカ
柔道出身プロレスラーとして忘れてはならないのがウィリエム・ルスカ(オランダ)だろう。ルスカはミュンヘン五輪で93㎏超級と無差別級で金メダル。五輪柔道同一大会での2階級制覇は、後にも先にもルスカだけだ。
ちなみに言うと、この時の93㎏以下級の金メダリストはショータ・チョチョシビリ(ソ連)。日本人の金メダルは93㎏未満にとどまり、重量級では日本勢が惨敗となった。
ルスカが柔道を引退した後、1976年2月6日に東京・日本武道館でアントニオ猪木と異種格闘技戦を行う。ヘーシンクとタッグを組んだ馬場と違い、異種格闘技戦としてルスカと闘ったのは、いかにも猪木らしいやり方だ。たしかにタッグを組むより、闘った方がインパクトは強いだろう。結果はよく知られている通り、猪木のバックドロップ3連発によりルスカはTKO負けを喫した。
もちろん、ガチンコでやると柔道金メダリストのルスカがこんな簡単に3度も投げられるわけがなく、ルスカは負けるのを承知で猪木戦に挑んだのだ。