[週刊ファイト4月24日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼2度の万博と2度のプロレス・オールスター戦の共通項
by 安威川敏樹
・開幕した大阪・関西万博
・1970年の大阪万博と、今年の大阪・関西万博が全く違う理由
・まだ日本で夢見ることができた時代、夢のオールスター戦が開催
・遂に激突! 新日本プロレスvs.全日本プロレス
・閉塞感が漂う世相の真っ只中で開催された『夢の懸け橋』
・オールスター戦そっちのけで注目された、マスコミ同士の大ゲンカ
4月13日(日)、大阪・関西万博が開幕した。前回の大阪万博は1970年に開催されたのだから、実に55年ぶりの大阪での万国博覧会である。
前回の大阪万博は、もはや伝説と言ってもいいだろう。来場者数は実に6400万人を超え、まさしく日本中が熱狂した。
しかし、今年の大阪・関西万博は今一つ盛り上がらない。筆者は大阪に住んでおり、関西ローカルの番組では毎日のように万博特集を組んでいるが、筆者の周りでも万博の話題になることはほとんどないのだ。
もっとも、日本人の特性として開催前は盛り上がらなくても、いざ始まってみると大盛況になることは多々あるので今の段階ではまだ失敗とは言えないが、開幕直後の雰囲気としては55年前とは比べるべくもないだろう。
実は、プロレス界でも似たようなことがあった。それが、オールスター戦である。時代と共に万博が変化したように、プロレス・オールスター戦も世代によって性格が異なっていた。
▼79年夢のオールスター戦の裏側 ワールドプロレスリングを創った男
1970年の大阪万博と、今年の大阪・関西万博が全く違う理由
前回の大阪万博の時、筆者はまだ2歳だった。年齢がバレてしまうが、この時に筆者は万博に行っている。
まだ物心もついていない頃だが、大雨が降って大泣きしていた光景だけはなぜか憶えていて、それ以外は全く記憶にない。つまり、万博にはいい想い出はないわけだ。
今回の大阪・関西万博は、まだ行くかどうか決めていない。高い入場料を払ってわざわざ行く気にはなれない反面、一生に一度しかないチャンスなので、行ってみたい気持ちもある。何しろ、万博と言えば大雨しか憶えていないのだから。
親の話では当時、どこもかしこも長蛇の列で大変だったという。今回の万博もそうなっているが、これは運営の拙さ故だろう。少なくとも、6千万人も行くイベントになるとは思えない。
筆者の記憶では、1981年に神戸市で行われたポートピア博の方が、今年の今の時期よりもずっと盛り上がっていた。しかし、かなり年下で東京在住の友人にその時のことを話すと、その友人はポートピアのことを全く知らなかったのだ。当時は全国的にもかなり話題になったはずだが、これがジェネレーション・ギャップというものだろうか。
ポートピアの総入場者数は約1600万人。そう考えると、日本人の2人に1人は行った計算になる70年の大阪万博は、いかに凄いイベントだったのか判る。
1970年の大阪万博と、今年の大阪・関西万博の温度差は、時代背景の違いによるものと言っていいだろう。1970年頃の日本は、まさしく高度経済成長期の真っ只中。日本は先進国の仲間入りを果たし、輝く未来が待っていると思われていた。
何しろ、その僅か25年前の日本は、太平洋戦争で焼け野原になっていたのである。惨め過ぎる敗戦から日本は、奇跡の復興を遂げた。
今から25年前と言えば、20世紀最後の年である2000年だ。筆者の感覚では、ミレニアムと言われたこの年などほんの1週間前のように思える。
この頃には既に携帯電話を持っていたし、仕事でパソコンも使っていた。25年経った現在、携帯電話はスマートフォンになった程度で、パソコンも当時から性能はともかく見た目はあまり変わっていない。
新幹線が登場したのは、敗戦から僅か19年後の1964年だ。その14年前、東京~大阪間は蒸気機関車で8時間もかかっていたのが、新幹線の登場により半分以下の3時間10分で結ぶようになったのである(初年度のみ慣らし運転のためスピードを落とし4時間かかった)。
それから60年、現在は最速で2時間21分。人間で言えば還暦となる年月をかけて、49分しか短縮できていないのだ。15年で5時間近くも速くなった新幹線登場時とは大きな違いである。
そして、東京(品川)~大阪(新大阪)間を1時間7分で結ぶ予定のリニア中央新幹線は、未だに開通していない。品川~名古屋間の開通予定は2027年だったのに、2034年以降に延期された。つまり、早くても新幹線開業から70年もかかることになる。
要するに、日本は敗戦から30年間で驚異的な進歩を遂げたのだ。1990年代以前とそれ以降では、時間の進み方が全然違うのである。
経済大国として押しも押されもせぬ一流国になった日本も、1990年代前半に起きたバブル崩壊により失速してしまう。GDPで日本は中国やドイツに追い抜かれ、インドにまで迫られている。
比類なき将来が約束されていると思われていた70年の大阪万博と違い、今の日本は夢が見られない。大阪に住んでいて強く感じるのは、万博が行われるにもかかわらず特需など全くなく、景気は一向に上向きにならないことだ。これでは、万博がなかなか盛り上がらないのも当然か。
まだ日本で夢見ることができた時代、夢のオールスター戦が開催
プロレス界で行われた最初の本格的なオールスター戦は、1979年8月26日に東京・日本武道館で開催された『プロレス夢のオールスター戦』だろう。参加したのは国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスで、今の感覚で言えば『たった3団体でオールスター戦なんて』といったところだが、当時としては驚天動地のことだった。
この頃の男子プロレスはこの3団体のみで、現在と違い団体間の交流なんてほとんどない。正確に言えば、国プロと全日、あるいは国プロと新日は協力していたこともあったが、肝心の新日と全日は断絶状態だったのだ。
時はアメリカとソ連(現:ロシア)による東西冷戦時代。プロレス界でも、新日と全日の冷戦が続いていた。特に大きかったのが、アントニオ猪木とジャイアント馬場との確執である。
猪木は馬場に対して常に挑戦を口にし、馬場はそれを無視。実際には馬場と猪木の対決なんて当時は無理で、お互いにそれは判っていたのだが、それを承知で猪木がしつこく挑戦し続けて、馬場が逃げたと思わせる戦略だったので、馬場は猪木に対し嫌悪感を抱いていたのである。
そんなバラバラの男子プロレス界をまとめようとしたのが東京スポーツ。東スポの呼び掛けに3団体が賛同し(馬場はしぶしぶだったが)、実現に向けて動き出した。
東スポは当然、馬場vs.猪木のシングル対決を希望したが、これは実現するはずもなく頓挫。代わりに、8年ぶりとなる馬場&猪木のタッグ・チーム、BI砲復活で合意した。