[ファイトクラブ]IWAジャパン・浅野起州(浅野金六)社長の訃報に寄せて

[週刊ファイト11月28日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼IWAジャパン・浅野起州(浅野金六)社長の訃報に寄せて
 編集部編
・浅野起州社長の訃報 その功績とプロレス界からの追悼の声
・浅野起州社長とIWAジャパン:独創的なプロレス団体の歴史と功績
・浅野起州社長へタイガー・ジェット・シンお悔やみメッセージ
・金六祭り2019:浅野起州還暦記念イベントの大成功
・浅野起州社長の遺志を継ぐSETUPタイランドプロレスリングの挑戦とその意義


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浅野起州社長の訃報 その功績とプロレス界からの追悼の声

 2024年11月12日、インディープロレス界の名物的存在であったIWAジャパンの浅野起州(本名:浅野金六)社長が72歳で逝去した。宮城県岩沼市で生まれた浅野社長は、飲食業やエンターテインメント業界での成功を経て、1994年にIWAジャパンを設立。日本マット界に新たな風を吹き込み、数々の功績を残した。

 中学卒業後、仙台でプロモーター業を学び、22歳で上京した浅野社長は、新宿2丁目を拠点に飲食業やコンサートプロモートなど、多岐にわたる事業を展開。1990年にはプロレス興行を手掛け始め、大仁田厚率いるFMWの興行を成功に導いた。その後、全日本プロレスの興行をもプロモートし、業界に広くその名を知られるようになった。

 1994年、プエルトリコのプロモーター、ビクター・キニョネスの助言を受け、IWAジャパンを旗揚げ。同団体は、独自のデスマッチ路線やコミカルなキャラクター展開で、1990年代のインディープロレスブームを支える中心的存在となった。

 IWAジャパンは旗揚げ翌年の1995年、川崎球場でのデスマッチ・トーナメントを開催し、2万8000人を超える観衆を動員。この大会には、テリー・ファンクやカクタス・ジャック(ミック・フォーリー)といった国際的な名レスラーが参戦し、団体の知名度を一気に高めた。また、WWEのスーパースターとして知られるTAJIRIもIWAジャパンでデビューするなど、未来のスターを育成する場としても機能した。

 しかし、1996年の交通事故で団体は大きな打撃を受ける。この困難を乗り越えるため、浅野社長は私財を投じて再建を図り、団体を存続させた。

 2000年代に入ると、浅野社長のコミカルなキャラクターを活かした「新宿2丁目劇場」が話題に。新宿を拠点に、定食屋「花膳」を舞台にしたプロレスショーや、独特なテーマのイベントがマニア層を中心に支持を集めた。

 しかし、2014年に脳梗塞を患ったことを機にIWAジャパンの活動を停止。その後も闘病生活を続けながら、プロレス界に関わり続けた。今年10月には久々のトークイベントを開催し、ファンの前に姿を見せるなど精力的な姿を見せていたが、そのわずか1カ月後にこの世を去ることとなった。

 浅野社長の訃報を受け、プロレス界からは多くの追悼の声が寄せられた。ノアの丸藤正道は「IWAジャパンでの楽しい思い出がたくさんあります」と述べ、DDTの秋山準は「若い頃、興行で大変お世話になりました」と感謝を表明。元プロレスラーの赤井沙希も、「試合でお世話になりました」と浅野社長の温かい人柄を偲んだ。

 ほか、DDTの高木三四郎「IWA JAPANは90年代インディーを牽引していた団体でDDTも浅野起州社長には非常にお世話になっていました。浅野金六さんのご冥福を心よりお祈りします」、ゴージャス松野「23年前にお声がけ頂かなかったら私は今プロレスの世界に存在しておりません。ゴージャス松野の生みの親である浅野社長のご逝去を悼み謹んでご冥福をお祈り申し上げます」、元WWEスーパースター、TAJIRI「出会った当時からアミーゴと呼んでいる水前寺狂四郎から電話が。こんど熊本で、金六さんを偲ぶ二人だけの会をやろうと。IWAの第一期入門生であるオレとアミーゴにはあるのだ。オレたちだけの、IWAジャパンプロレスが」とそれぞれ感謝を述べたほか、日本人レスラーだけでなく、外人選手も多く感謝を述べ、後述するタイガー・ジェット・シンの他に、クリス・ブルックス「出会いに感謝し、マサと私がIWAジャパンのタッグタイトルのベルトを持つことができたことに感謝している。すべてを作ってくれてありがとう」など、国内外問わず、多くのレスラーに慕われた浅野社長の人柄が偲ばれる。

 浅野社長の人生は、プロレス界への貢献と挑戦に満ちたものだった。IWAジャパンは、デスマッチというジャンルの可能性を広げ、多くのファンに感動を与えた。彼が築いた「異色の華」は、これからも日本マット界に咲き続けるだろう。浅野起州社長のご冥福を心からお祈り申し上げる。

浅野起州社長とIWAジャパン:独創的なプロレス団体の歴史と功績
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 浅野起州社長は、IWAジャパンの歴史において欠かせない存在であり、その功績は日本プロレス界にとどまらず、エンターテインメント業界全体に影響を与えた。彼が率いたIWAジャパンは、革新と挑戦に満ちた団体として多くのファンに愛され続けた。

 IWAジャパンは、1994年にビクター・キニョネスのもとで設立され、当初はデスマッチ路線を中心に展開。1995年には川崎球場で伝説的なデスマッチ・トーナメントを開催し、日本のプロレス史にその名を刻んだ。この大会では、カクタス・ジャックやテリー・ファンクといった名だたるレスラーが参加し、観客を熱狂させた。

 1999年、浅野起州が代表に就任すると、IWAジャパンは新たな方向性を模索し始めた。浅野体制の特徴は「新宿2丁目劇場」というユニークな路線であり、新宿にある彼の飲食店「花膳」を拠点にプロレスショーや記者会見を行うという独自のスタイルを確立。浅野社長自身も積極的に前面に立ち、キャラクターとしてファンに親しまれた。

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