[ファイトクラブ]大仁田から越中、小川良成まで……G馬場時代の全日ジュニア系譜

[週刊ファイト9月5日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼大仁田から越中、小川良成まで……G馬場時代の全日ジュニア系譜
 by 安威川敏樹
・G馬場の意識を変えた、新日本プロレスの初代タイガーマスク
・ジュニアの概念がなかった全日本プロレスに登場した大仁田厚
・ウルトラセブンにマジック・ドラゴン、異色の全日ジュニア戦士
・前座のライバルから、新日と全日に分かれた越中詩郎と三沢光晴
・全日ジュニアの至宝、世界ジュニア初代王者は新日出身者
・渕正信が見せた、全日ジュニアの意地
・他団体のヘビー級エースが、全日本プロレスではJr.ヘビー級!?
・万年前座の男が世界奪取
・新たな全日ジュニアのライバル、小川良成vs.菊地毅
・全日ジュニア戦線のアキレス腱とは?


 小川良成が引退を発表した。その一方で、大仁田厚が8月24日にデビュー50周年記念大会を開催、同日に越中詩郎もデビュー45周年記念大会を行っている。

 この3人に共通しているのは、全日本プロレスのジュニア戦士としてキャリアをスタートさせていることだ。そして、いずれも全日の創始者であるジャイアント馬場の社長(会長職を含む)時代である。

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ジュニアの概念がなかった全日本プロレスに登場した大仁田厚

 ジャイアント馬場の信念は「プロレスラーは大きくなければならない」。そのため、1972年の全日本プロレス発足以来、馬場はジャンボ鶴田、天龍源一郎、タイガー戸口、サムソン・クツワダ、ロッキー羽田といった、外国人レスラーに見劣りしない巨漢選手を重宝した。
 しかし、他の格闘技からスカウトした人材と違い、全日の門を叩いて新弟子となるレスラーの体はそんなに大きいわけではない。したがって、馬場社長時代の全日は体の大きいエリート組のみが出世コースを歩み、体の小さい叩き上げ組は良くて中堅クラス止まりと言われていた。

 一方、ライバルの新日本プロレスは総帥のアントニオ猪木が叩き上げ選手を好んだせいか、さほど体の大きくない選手もメインを張るようになったのだ。その代表例が藤波辰巳(現:辰爾)である。
 売り出し中だった頃の藤波の主戦場はJr.ヘビー級。力道山の昔から日本のプロレス界はヘビー級中心だったが、藤波の出現によってスピーディーな試合展開や空中殺法など、ヘビー級にはないジュニアの魅力を日本のファンは初めて知ったのだ。

 それでも、馬場は動かない。この頃の馬場の辞書に『Jr.ヘビー級』の文字はなかったのだろう。
 潮流が変わったのは、新日に初代タイガーマスク(佐山聡)が出現してからではないか。タイガーマスクの天才的かつ華麗なファイトはプロレス・ファン以外も虜にし、日本中にタイガーマスク・ブームを巻き起こした。

 馬場の辞書改訂版に初めて『Jr.ヘビー級』の文字が載ったのは、この時だったに違いない。馬場はプロレスの魅力を大衆に伝えたかったのに対し、猪木の新日はマニア向け。しかし、新日のタイガーマスクがプロレス・ファン以外の心を掴んでいる。
 馬場は全日にもジュニアのスターを作ろうとした。白羽の矢が立ったのは大仁田厚だったのだ。

 大仁田は全日の入門第1号。大仁田は類稀なる処世術(言い換えればゴマすり)により馬場夫妻から寵愛を受け、子供がいなかったこともあり馬場は大仁田を養子にしようと考えていた。
 それでも、馬場は大仁田をメイン・エベンターとして育てようとは思っていなかっただろう。しかし、タイガーマスクの出現により、大仁田の運命は大きく変わった。スターとしての道が開けたのだ。もし初代タイガーマスクがいなければ、大仁田は今のような超有名人にはなってなかったかも知れない。

 1982年3月、大仁田はアメリカでチャボ・ゲレロを破り、NWAインターナショナルJr.ヘビー級王者となる。このインター・ジュニアこそが、新日の藤波や木村健吾(現:健悟)らが巻いていたベルトだ。チャンピオン・ベルトが団体間を移動するという、当時としては珍しい例である。
 また、大仁田にとってチャボは格好のライバルとなった。タイガーマスクのように連戦連勝とはいかなかったが、チャボと名勝負を繰り広げ、大仁田の認知度と人気は上昇したのだ。

 この頃、大仁田のライバルとしてウルトラセブンも登場している。正体は国際プロレス出身の高杉正彦だが、これは新日でタイガーマスクと好勝負を演じたウルトラマンのパクリ。
 また、大仁田の1年後輩であるハル薗田(薗田一治)も覆面を被りマジック・ドラゴンとして全日マットに上がったこともある。しかし、彼らのギミックは失敗作だったと言えよう。

 順調に全日のジュニア戦線を引っ張っていた大仁田だったが、1983年4月20日の東京都体育館で、チャボの弟であるヘクター・ゲレロを破った後、リングを降りた際に左膝を粉砕骨折。
 たった1年という、太く短い全日ジュニア戦士としての大仁田厚はこの日、突如として事実上の終わりを告げた。1年半後、大仁田はマイティ井上に敗れて正式に引退している。

 その後、1989年に復帰してFMWを設立、全日時代とは全く違うデスマッチ路線で大ブレイクしたのはご存知の通り。全日時代は初代タイガーマスクに戦績や人気面で遠く及ばなかったが、その後の知名度や政治家活動では、大仁田は佐山聡を圧倒した(佐山は参院選に出馬するも落選)。

前座のライバルから、新日と全日に分かれた越中詩郎と三沢光晴

 大仁田厚が引退(1回目)した頃、全日本プロレスには新たなジュニア戦士が育っていた。越中詩郎と三沢光晴である。
 年齢的には越中の方が4歳上で、両者の対戦は『全日・前座の黄金カード』と呼ばれ、1984年4月にはルー・テーズ杯決勝で両者が対戦し、越中が先輩の貫録を見せて勝ったが、テレビ中継されたこの試合により2人の知名度はグンとアップした。

 その直後、越中と三沢はメキシコに遠征。このメキシコ遠征が2人の運命を分ける。
 越中はサムライ・シロー、三沢がカミカゼ・ミサワと名乗ってファイトしていたところ、三沢のみに帰国命令が下った。「二代目タイガーマスクになれ」と。

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