[Fightドキュメンタリー劇場56]ボック証言「シュツットガルトの惨劇」~I編集長「危険技ルール違反」考

週刊ファイト1982年1月5日付け『ローラン・ボック特集号』より
[ファイトクラブ]先行公開 [週刊ファイト9月5日号]収録

[Fightドキュメンタリー劇場56] ローラン・ボック自伝を読む⑦
▼ボック証言「シュツットガルトの惨劇」~I編集長「危険技ルール違反」考 
 by Favorite Cafe 管理人
・「私が捻る角度をほんの少し変えるだけで、猪木の足は破壊される」
・試合経過をビデオで検証:いつものジュースではないリアルな流血
・「できるだけ猪木にケガをさせないように闘え」ポール・バーガー忠告
・猪木の判定負け、判定採決は合意なし「ボックの騙し討ちだった?」説
・再戦は日本、払えなかった猪木のギャラの代償か、ボック新日参戦へ
・受け身が取れないボックの危険技、ルール違反 I編集長の見方
・週刊ファイト独占記事・井上讓二検証:1979年12月 ボックvs.アンドレ


 「シュツットガルトの惨劇」と語り継がれるアントニオ猪木vs.ローラン・ボックは、試合から1ヶ月遅れの1978年12月29日、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」で放送された。当時の放送をリアルタイムでご覧になった方は少ないかも知れないが、日本のファンにすれば、アントニオ猪木が無名に近いヨーロッパのプロレスラーに敗れたということで、かなりの衝撃を受けたことは想像に難くない。今ではCSで何度も再放送されているし、DVDや新日本プロレスの動画サービスでも見ることができるので、一度はご覧になった方の数は多いはずだ。

 このビデオに映し出される会場のキレスベルクホールは、テレビ用の照明もなく、まるで「地下プロレス」の世界である。そして、会場音の中から断続的に聞こえてくるローラン・ボックを讃える歌。男たちの野太い合唱が、独特の雰囲気を醸し出している。ヨーロッパサッカーでも、スタンドからサポーターの合唱が聞こえてくることがあるが、それは開放的な陽の雰囲気。しかしこの会場に響く「ローラン・ボックを讃える歌」が、独裁者を讃える民衆の声のように聞こえてしまうのは、結果を知っている先入観からだろうか。この会場音がローラン・ボックの不気味さと試合の凄惨さを増幅させている。

 シュツットガルトは、ローラン・ボックの地元、ホームグラウンドである。そしてボックはアマレス時代から、シュツットガルトだけで無くドイツ全土に実力者として名が通っていた。自伝を読み解くと、ボックは世界に打って出るために、「モハメド・アリと闘って引き分けたアントニオ猪木」に勝って、一気に表舞台に駆け上がろうと目論んでいたことがわかる。それは、アントニオ猪木がモハメド・アリをターゲットにした行動と全く同じであり、現状を打ち破ろうとするエネルギーには凄まじいものがあったのだ。


1978年11月25日 シュツットガルト 猪木vs.ボック

 「私が捻る角度をほんの少し変えるだけで、猪木の足は破壊される」 

■ ボック自伝より
・・・・・・猪木は私の攻撃に全てを委ねてきた。私も猪木の技に自分自身の全てを投げだした。互いの信頼は芸術的な激しい攻防を作り上げていった。猪木が私の眉間に危険なキックを放ったが、私はそれを受けて見せた。眉の上が切れて出血した。いつものカットとは違う、トリックの無いリアルな出血だった。

 第7ラウンド、あるいは第8ラウンドだっただろうか、私は猪木の足を極めた。猪木は動けなかった。猪木が少しでも抵抗して力を入れれば、骨折しただろう。時間が減速しているような感覚だった。猪木は私の目を見つめ、長いアゴをさらに突きだした。猪木は抵抗することをやめ、自分の足を完全に私に委ねていた。私が捻る角度をほんの少し変えるだけで、猪木の足は破壊される。ここで猪木を潰して、アリと闘った男に完勝したという称号を手にしたいという衝動にかられた。それはやろうと思えば簡単な事だった。しかし、ルールを守れない男として軽蔑され、プロレスの世界から追放されるリスクも十分にある。同時に、ロンドンのロイズ社の保険証書も頭に浮かんだ。猪木の負傷でツアーが中止になり、保険金が手に入れば破産はまぬがれるかもしれない。勝利、名誉、裏切り、違約金、ツアーの中止、保険金。損得を瞬時に判断することはできなかった。

 その時、私の目の前には、あの忌まわしい「墓掘り人」の姿が見えた。あの男なら必ず猪木の足をへし折っているはずだ。私が躊躇しながら、猪木の足を固めていた時間は1分もあっただろうか。その時会場から聞こえてきた、「帝王ローラン・ボック、ボックこそが神!」という応援の大合唱が私の思考を現実に引き戻した。私は猪木の足を解放した・・・・・・

[Fightドキュメンタリー劇場 50]
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[Fightドキュメンタリー劇場 50]ドイツ語自伝『BOCK!』翻訳出版、8月1日クラウドファンディング始動!

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 ボック自伝の記述を検証するために、当時放送された映像で確認してみると、ボックが不自然に足を固める攻撃は、2ラウンドに約50秒間の危険なシーンがある。自伝のこの記述は第2ラウンドの攻防のことだろう。
 「あの忌まわしい“墓掘り人”」とは、ボックの祖父のことである。本当の“墓掘り人” とは何か、そしてこの時のボックの感情は、少年期~アマレス時代の項を読むことで理解できる。

 試合経過ビデオ検証:ボックの足折り、ジュースではないリアルな流血

 映像を確認すると、7ラウンドにはボストンクラブの体勢に入るために足を取るシーンがあるが、通常のプロレスの攻防に見える。ボックの出血は、9ラウンド、場外転落前の猪木のヘッドバットの後だと思われる。カットの気配はなく大流血している。ただし猪木が顔面への危険なキックを放つシーンは見られない。


足首への危険な攻撃は2ラウンドにある(ワールドプロレスリング放送画面より)

 この自伝はボックの述懐を元に構成されているので、実際のラウンド数などの記憶違いは当然あると思われる。そのことをことさら「間違いだ」と指摘するつもりはない。それよりも確かにそのシーンが存在することから、ボック自身の証言が、当時のプロレス報道にありがちだったファンタジーではないことが確認できる。

 なかなか映像を入手することができなかった当時、週刊ファイトや東京スポーツには、詳細な試合経過も掲載されているが、今ではいつでも映像で試合を見ることができるので、試合経過の再掲は省略して、どうしてこのプロレスの試合が「惨劇」と言われる過酷な試合になってしまったのかを週刊ファイトのインタビュー記事から探ってみたい。

■ 週刊ファイト(1982年1月5日号より)
 11月25日、シュツットガルトでの猪木-ボック戦を裁いたホッテ・ハインリッヒ(レフェリー)は「イノキは日本のレスラーだし、アメリカンスタイルでずっと闘ってきたのだから、できるだけ反則は取らないように考慮した」と言っている。だが、これはあとになって嘘っぱちとわかった。2日前にボックが「シュツットガルトではイノキの反則は大目に見ろ。反則を厳しく取ったのでは試合にならない。イノキが反則負けではオレのメンツが立たん」と、反則を大目に見るよう指示したのである。


レフェリーのハインリッヒ氏(右端)

(引き続き記事引用)
 シュツットガルトはボックの出身地である。ボックは、この街で生まれ育った。メキシコ・オリンピックでボックがアマレスのヘビー級代表になったときは、街をあげての歓送風景となった。当然、知人やファンは多い。ボックが他のレスラーに合わせたアメリカンスタイルの試合をやったが最後、ブーブーと非難されただろう。


1981年の来日では、ショーアップしたテクニックも披露した

 ところが猪木は、ツアーに対する数々の不満(移動の問題、マットの硬さ、ラウンド制などについて改善を求めていた)から「こちらの言い分を通さないのなら、リング上でその答えを出してやる」とボックに言い渡した。ボックがカッとなったのは容易に想像がつく。

 「できるだけ猪木にケガをさせないように闘え」ポール・バーガー忠告

■ 週刊ファイト(1982年1月5日号より)
(ボック)「私はプロモーターだ。イノキには莫大なギャラを払っている。それはイノキが日本で得るギャラよりかなり多いはずだ。それなのにイノキはリング上でオレを叩きつぶすと言った。そうか、それなら私も遠慮はいらんな、とバーガーと話をした。バーガーからは、できるだけケガはさせないように闘った方がいい。そうでないとこのサーキットに失敗し、莫大な借金を負うことになる・・・・と忠告された。(第一戦、第二戦は)そのつもりで闘っていたが、もう許せない。今度はオレがイノキをつぶしてやる。こちらのやり方に不服を唱えて挑戦してきている以上、ろっ骨の一本や二本を折ったところで、誰も私を非難しないだろう」

 こうなると試合はレスリングを装っているが、いつ殺し合いに発展するかわからない。猪木は覚悟を決めてリングに上がった。だが、猪木は右肩、首、背骨、腰に、ねんざ、打撲傷の満身創痍で、まともな状態ではなかった。そうでなければ、いくら相手がボックといえども、猪木がああまでやられることはなかったはずだ。

 猪木が予想した通り、ボックは叩き潰しに出た。“墓掘り人”のニックネーム通りで、ルール違反の関節技、受け身の取りにくいバックドロップ、フロントスープレックスなどを次から次へと繰り出してきた。

 特に9ラウンドにボックが放ったパイルドライバーは、後ろへ倒さず前頭部と胸部をマットに叩きつけるものだった。口でいうと何でもないように感じられるだろうが、この一発を食った直後の猪木の目は完全に視点を失っていた。

 1ラウンドにボックがいきなり猪木の左腕を決めて強引に投げたのも、ヒヤッとしたシーン。猪木は反射的に体を寄せて投げを受けたからよかったものの「あそこで投げられまいと踏ん張ったらどうなっていたか」と猪木が青い顔をしたほどの危険技だった。
 猪木は8ラウンドにチョーク気味のスリーパーホールドで警告カードを渡され、10ラウンドにボックの喉元にチョップを叩き込んだときは、2枚目のカードを渡された。この警告カードが3枚になると反則負けになるルールで、猪木にすればなんとも闘いにくいヨーロッパ・ルールだった。

—————–(引用、ここまで)


スリーパーホールドで警告カード(1978年11月25日)

 猪木の判定負け、判定採決は合意なし「ボックの騙し討ちだった?」説 

 この試合の判定については、2-1とも3-0とも言われている。手元にある「週刊ファイト」「別冊ゴング」では、猪木サイドからケン田島氏がジャッジに加わっており、猪木の方にポイントを入れて、2-1と書かれている。

 しかしのちには、猪木、新間氏は、試合終了まで判定が導入されているとは聞かされていなかったと言っている報道も数多く見受けられる。猪木サイドは、10R引き分けという結末のみに合意していたという。このツアーでのここまでの闘いでは、この日までフルタイムの試合に「判定」は採用されていない。試合終了後のリング上での新間氏の猛抗議も、映像で見る限りとても演技とは思えない勢いがある。

 2024年に発行された「猪木のためなら死ねる!(宝島社)」の中で藤原も、

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