[週刊ファイト3月28日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼“不沈艦”スタン・ハンセン大阪来襲!ラジオ、トークショー大暴れ秘話
photo & text by 藤井敏之 w/編集部編
・ブルーザー・ブロデイの出会いと彼のプロレス感
・ブルーノ・サンマルチノとは
・1990年2月10日 ビッグ・バン・ベイダー戦
・1977年新日本プロレス初ツアー参戦
・1982年アトランタ2万5千ドル争奪NWA世界タッグトーナメント東部部門
・超意外!最高のパートナーはロン・バス
・初めてプロレスを見たのはいつか
・ウエスタン・ラリアート
・観客へのアピール
・アンドレ・ザ・ジャイアントと日本での映画鑑賞
・1977年新日本プロレス初参戦当時のポスター
3月14日、久々に大阪入りした“不沈艦”スタン・ハンセンがKBSラジオに出演、その後道頓堀“角座”にてトーク・イベントに出演とタイトなスケジュールをこなし、久々浪速のハンセンファンに熱いメッセージを残していった。
14日午後、新幹線で来阪したハンセンは道頓堀で大好物のお好み焼きを食し、パワー全開の元KBSラジオ“角田龍平の蛤御門のヘン”(今回はスケジュールの都合もあり難波某所にて出張収録)に出演。いつものプロレス回のレギュラーである角田龍平MC、ライレージム京都の松並修、当ファイト記者の藤井敏之にて質問を考慮、他ラジオでハンセンへの質問を取り寄せた葉書など厳選の上、約45分間ハンセンにこれまであまり質問されたことのないような事を聞きだすことに挑戦した。
プロレス知識が豊富なテデイさんの軽快な通訳もありかなり面白い内容となる。ハンセンさんもご機嫌に対応してくださり、これまでテレビ放送やトーク・イベントなど観衆がいる前では「ユース」と叫ぶことがあっても、ラジオ放送においては一度もユースは言わなかったそうだが、今回の放送においてはなんと、オープニングからエンディングまでなんと3回も「ユース」を叫んでくださる快挙!!
角田龍平の蛤御門のヘンにハンセン登場。松並代表、藤井記者、スタン・ハンセン、MC角田龍平
その後、タクシーで道頓堀の“角座”まで飛ばす。既に会場前には多くの観客がたむろされており、タクシーから降りてくるハンセンさんを見つけるや往年のファンが涙ぐみ握手する姿も見受けられた。
19時からスタートしたトーク・イベントは熱狂のまま65分程展開されファンも満足気な様子、その後2ショット写真を多くの方が撮影されていた。
今回はこの2か所のイベント、並びに藤井記者がタクシー内や食事中に個人的に質問した回答において特に興味深く、驚きがあったものを羅列していくことにする。
①ブルーザー・ブロデイの出会いと彼のプロレス感
師匠のドリー・ファンクJrの指示でプロモーターであるレロイ・マクガークが管轄するあまり評判の良くないオクラホマ・ルイジアナ地区に行かされた時、再会したフランク・グーディッシュ(後のブルーザー・ブロデイ)とタッグ結成。同地区のUSタッグを奪取し大暴れ、その活躍が初めて注目された。その後全日本プロレスにおいて“ミラクルパワーコンビ”として大活躍する。
確かにベストパートナーであるが、お互い基本的にはレスリングスタイルが違えど同じ結果を望んでいたのでコンビネーションも良かったのだろう。自分は生活もあり頑張っていたが、横で見る限りブロデイはプロレスを本当に愛していたように見えた。
そして彼は「前座レスラーからスタートしメインエベンターまで登り詰め、年齢とともに前座レスラーに戻り引退したい」と言っていたよ。
➁ブルーノ・サンマルチノとは
WWWFのビンス・マクマホンSrが新日本プロレスと提携していた時代、ブルーノ・サンマルチノは頑なに新日本プロレスには行かなくジャイアント馬場との友情を大切にして全日本プロレスのリングに上がり続けているのを横でみていた。
ハンセンは1976年、全日本プロレス初参戦後ダラス地区に入る。その巨体とパワーファイトを見た、マイク・パドーシスが東部向きのレスラーだと思い、ブルーノ・サンマルチノに紹介してくれたそうだ。サンマルチノもハンセンの素質を気に入り即決定、ブッカーのレッド・バスチエンも快く送りだしてくれたと言う。その後『サンマルチノ首折事件』の時も、サンマルチノは「心配するな! 俺がカムバックするまで頑張れ!!」と励ましてくれた。私の人生の分岐点においてマイク・パドーシス、レッド・バスチエン、そしてブルーノ・サンマルチノには今でも感謝している。
全日本プロレスに参戦する際、“馬場は信用できる人間、間違いのない人間”というのを尊敬するサンマルチノから言われていたので、全日本プロレスで活躍した約20年間はハンドシエイクのみでリングに上がり続けていた。
②1990年2月10日 ビッグ・バン・ベイダー戦
東京ドームで新日本プロレスの最強外人であるビッグ・バン・ベイダーと対戦した日。あの大きな体で動けるベイダーは素晴らしい選手だった。翌日同じ東京ドームで行われるプロボクシング統一世界ヘビー級タイトルマッチ、王者マイク・タイソン対挑戦者バスター・ダクラスの試合(タイソンがダクラスに破れるという歴史的番狂わせ)を観に行く予定をしていたが、ふと前日のベイダー戦を思い出し、あんなすばらしい試合をしたのだからそれ以上ファンをエキサイトさせる試合は無いと確信。試合を見に行かずに飛行機に乗りこんだそうだ。
③1977年新日本プロレス初ツアー参戦
WWWFで「サンマルチノ首折!」のスクープも日本に伝わり、その技ウェスタン・ラリアットという未知の技を引っ提げ、外人ではナンバー2の存在で来日。なんとシリーズ中アントニオ猪木とのシングル戦を4回も組まれるという優遇。猪木とシンの抗争も少しマンネリ化している時のタイムリーな来日で、大飛躍するきっかけとなる。本人は一緒に来日したデイブ・テイラーがシリーズ途中で盲腸になり直ぐ帰国したのを明確に覚えている。また、ピート・ロバーツと意気投合。その後も友情関係が続き自らの引退試合にも来てもらった。今でも週に2、3回お互いテレビ電話で長時間話す中だそうだ。
またエースで参加していたタイガー・ジエット・シンから最近電話があり、あの頃いっしょに日本をツアーした昔話で盛り上がったそうだ。(タイガーさんがハンセンのコメントや動画を見るにおいて、いつも自分の事を良く言ってくれるハンセンに対し、お礼並びに久々昔話に花を咲かせたく筆者の所へメールが届き、ハンセンの奥様に連絡を取り実現)
➄1982年アトランタでの2万5千ドル争奪NWA世界タッグトーナメント東部部門
日本でも有名なジム・バーネットプロモーターのジョージア地区においてブッカーのオレイ・アンダーソンと意気投合、全日本プロレスに移った直後にタッグを組みこのトーナメントに参加。決勝戦ではブリスコ兄弟(ジャック&ジェリー)と対戦し優勝する。日本のテレビでも放送(鶴田&天龍組も参加)されたのを覚えている。
ジョージア地区のブッカーからプロモーターに昇進したオレイとは連携もよく王者タッグとして活躍、日本ではなじみのないタッグパートナーだがハンセンにとっては忘れられない盟友だそうだ。先日2月26日お亡くなりになったことを聞き寂しく思っている。
▼貴重写真!“ミネソタの粉砕野郎”ことオレイ・アンダーソンさん81歳没
満員のお客様で詰まったハンセンのトークショーの模様