[ファイトクラブ]貴重写真!“ミネソタの粉砕野郎”ことオレイ・アンダーソンさん81歳没

オレイと奥様。旧NWAのBooker(現場監督)として君臨したので象徴として”鉛筆”を握らせる!
[週刊ファイト3月7日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼貴重写真!“ミネソタの粉砕野郎”ことオレイ・アンダーソンさん81歳没
 photo: 週刊ファイト by藤井敏之&編集部編
・来日回数3回広く知られてないかもだが 日プロ 国際プロ 全日プロ
・1970年1月5日大阪府立体育会館 星野勘太郎戦 30歳での雄姿グラフ
・急降下ニー オクラホマ・スタンピート エルボー スピードと馬力
・フレアー、アーン、タリー、JJデュランとフォー・ホースメン創設
・ロード・ウォリアーズの生みの親である逸話は余りにも有名!
・タッグ王者スタン・ハンセン~NWAブッカー就任~WWEエージェント
・ポーゴ著作『評伝ブルーザー・ブロディ 超獣の真実~暁に蘇れ』
・ご冥福をお祈りいたします。


 またも、海の向こうから訃報が飛び込んできた。タッグ屋として活躍したオレイ・アンダーソンさんが現地時間2月26日に81歳でお亡くなりになった。

2000年CACでお会いした時の3ショット(左よりジン・アンダーソン&テーズ、ニック)

 来日回数は3回と少なく、あまり印象に残っていないというプロレスファンも多いかもしれない。初来日は1970年1月の日本プロレス・新春チャンピオンシリーズに兄ジン・アンダーソンとのタッグ。2回目は1973年10月の国際プロレスのビッグ・ウインター・シリーズに再びジン・アンダーソンのタッグで来日した。
 3度目は1986年3月全日本プロレス『チャンピオンカーニバル86』に久々の来日を果たす。オレイ・アンダーソンの記憶においては1970年の初来日において、1月5日の大阪府立体育会館のファイトぶりが今でも蘇る。

 この日のメインは時のインターナショナル・タッグ王者に君臨していたBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)にそのシリーズのエースであったボボ・ブラジル&ハンス・ジエームスが挑戦する試合をメインにシングルマッチ8試合が組まれ、期待していたジンとオレイのアンダーソン兄弟のタッグ戦の試合を見ることが出来なかったのが残念であった。

 当時の知識としてはミネソタ州立大学でレスリングの選手として活躍され、先輩であるバーン・ガニアに師事してプロレス入り。ロック・ロゴウスキーのリングネームにてAWA圏で活躍後、その後NWA圏のミッドアトランティック地区に転戦。オレイ・アンダーソンと改名しジン・アンダーソン&ラーズ・アンダーソンとミネソタ・レッキング・クルーを結成。実際の血縁関係はないがユージンEugeneことジンが「長男役」であった。その後NWA南部テリトリーに進出して活躍する。

ジン・アンダーソン(1970年1月5日大阪) ラーズ・アンダーソン(1970年10月29日大阪)

 当時は来日する前に選手の経歴などを雑誌のすみずみまで読み研究していた頃が懐かしい。1970年来日前は、ノースカロライナ地区においてブルー・インフェルノスからノースカロライナ・タッグ王座を奪取、そしてテキサスから乗り込んできたリップ・ホークとスエード・ハンセン組より太平洋岸・タッグ王座を奪い、2冠王者として君臨していた。また、同所においてはジョージとサンデーのスコット兄弟、エルド・ポグニ、ブロンコ・ルビッチ組、ジョージ・ベッカー、ジョニー・ウィーバー組らと抗争。シングルでではルター・レンジやミスター・レスリング、そして日本のヨシ・スズキ(ミスター鈴木)らと対戦していた記録がある。


 このような知識を入れて観戦した大阪の試合は星野勘太郎と6試合目で対決、12分39秒体固めでオレイ・アンダーソンが勝利している記録がパンフレットに記載してあった。

1970年1月5日:大阪府立体育会館(オレイ・アンダーソン対星野勘太郎)

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