[Fightドキュメンタリー劇場 49]1979年、新日本プロレスのメキシコ遠征 藤波との友情「カネック物語」

新日本プロレスのメキシコ遠征・現地のポスター(1980年)
[週刊ファイト3月7日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場 49]井上義啓の喫茶店トーク
 1979年、新日本プロレスのメキシコ遠征 藤波との友情「カネック物語」
 by Favorite Cafe 管理人
・闘いのワンダーランド「アントニオ猪木vs.エル・カネック」
・良い試合にならなかったわけミスター空中レフェリー反則裁定
・闘いのワンダーランド「藤波辰巳 vs. エル・カネック」
・「藤波はあれだけ足首を痛めておって、歩けない状態じゃ無いか」
・I編集長「ハッキリいえば藤波はキチ○イ・ファイトでしたよ」
・「カネックは凄いレスラーだから日本に呼んでやってください」
・敵前逃亡事件 ノイローゼ、蒸発
・カネックはマスクを剥がされると言う話を鵜呑みにした
・カネックを思いやって、だからわざとマスクを引き裂いた顛末
・泣けるプロレス話


カネックは、藤波の好敵手として来日し、敵前逃亡事件なども起こしたものの、藤波とは好勝負を展開した。その後アントニオ猪木ともUWA世界タイトルをめぐる闘いも印象深い。
“孤高の帝王”、“ならず者”と呼ばれたメキシコのマスクマン、カネックの物語。

■ 闘いのワンダーランド #063(1997.03.03放送)「I編集長の喫茶店トーク」より
1979.04.22 メキシコ・トレオ・ド・クアトロカミノス
アントニオ猪木 vs. エル・カネック


(I編集長) 今日のお話は、二本立てです。試合は見ていただきましたように、1979年(昭和54年)4月22日、メキシコの「トレオ・ド・クアトロ・カミノス」という非常に舌を噛みそうなややこしい名前の会場で行われた試合ですね、これ。無制限3本勝負ですが、見てもらったように猪木が2対0で勝ちますわね。

超満員の「トレオ・ド・クアトロ・カミノス」

(I編集長) さて、この試合なんですが、この当日はメキシコでは珍しく雨模様なんですよ。非常に足元が悪い中で、会場にはなんと2万人近い観衆が押し寄せたんです。入場料はですね、当時メキシコではリングサイドの入場料が、80ペソと決まっておったもんですよ。まあ当時の日本円にすると800円ぐらいでしょうか。ところがこの日はですね、なんと180ペソだったんですね。1800円、もう倍以上なんですよ。それでも2万人という大観衆が押し寄せたわけですよ。これはまあ、新間氏あたりに言わせると、「見ましたか? 猪木人気は凄いでしょう」ということでしたね。カネックが挑戦したんですからね。他に、藤波、浜田というメキシコファンに馴染みの深い日本人レスラーが出場しておったので、それもあるでしょう。ところがやっぱり、メインエベントは、ドス・カラスとアストロ・レイのマスク剥ぎマッチだったんですね。マスカラ・コントラ・マスカラってやつです。これがメインエベントですから、まあ、ハッキリ言えばそこらへんの人気もですね、加味されたことは確かでしょう。
 しかしまあ、いずれにしましても、猪木、藤波、浜田という顔ぶれは、メキシコでもどこに行っても会場を満員にするだけの力を持っていた訳ですよ。当時そういうことを新日本プロレスの広報が言っていましたけども、お世辞でも何でも無く、私でもそう思いましたね。だからやっぱり、この日も満員なんですよ。

(I編集長) ところが超満員の大会にもかかわらず、カネックがなんかいいところ無く負けてしまっている。一本目は反則負けだしね、2本目はフォールを取られてしまっている。それで、カネックに話を聞いたところが、「1本目は猪木がラフファイトで来たから、オレもそれに対応してやったんだ。ラフに出たんだ」と。しかし、「あれぐらいのラフファイトを反則負けにとられたのではどうしようも無い」と言うんですね。

(I編集長) ご説明するとですね、メキシコのルチャリブレは、跳んだり跳ねたりが見せ場で、タッグマッチなんかでもノータッチで飛び出すことができる、それが良いところでもあるんです。しかしタイトルマッチとなると、逆にもの凄くルールが厳しくなるんですよ。反則も非常に厳しくチェックされて、少しのラフファイトでも反則負けになってしまうんです。そういったお国柄でもあるんですよ。それは分かるんですね。この時はレフリーがミスター空中でした。ミスター空中は「事前にそういったルールの扱いを聞いていた。だから厳しくチェックして反則負けにした。私のレフリングに間違いは無い」と言うんです。確かにそうなんですね。しかし、カネックに言わせると「程度があるだろう」ということですよ。「いくら反則を厳しくとると言ったって、あの程度の反則で負けにするならやる気がなくなってしまう。気持ちがのらないから2本目もストレートで負けてしまったんだ。そういう風にちゃんと書いてくれ、これはレフリーの判断ミスだ」と、ウチの特派員にやかましく言ったらしいですよ。

ミスター空中

(I編集長) この反則をどこまで許すのか、反則負けにしてしまうのかは、非常に難しいんですよね。大阪府立で上田とシンが闘いましたね、超満員になった試合ですよ。猪木が特別レフリーだった。あの試合は、まあそこそこの試合だったので、なんとか合格点は出せるんですけども、何かもう一つ迫力が無い、そんなトーンダウンした試合になってしまいましたね。我々が予想した、そして猪木が考えていたような壮絶な試合にはなりませんでした。何故かというと、シンの側にも何か躊躇する部分があった、上田は非常に体調が悪くて、顔色ももう、真っ白だった、その前の試合ではストロング小林にイスで「ガーン」とやられて額あたりがもう腫れあがって膿んでいましたしね。試合の前には「井上さん、今日はもう、闘える状態じゃ無いですよ」と話をしてくれました。それは分かるんだけども、私が指摘したのは「トーンダウンした原因というのは、特別レフリーが猪木だったからだ」と言うことですよ。
 猪木はシンや上田がちょっとでも反則をすると、「バーン」と手刀を食らわしたり、蹴ったりしましたね。ですから、シンも上田も猪木がレフリーをやりながら、ストロングスタイルのまともな試合をやらせようとしていると感じて、そういう方向にいってしまったんです。だからああいった双方の攻撃が「プツ、プツッ」と途切れてしまうような迫力の無い試合になったわけですよ。迫力の無いダメな試合だと言ったら語弊があるかも知れませんけどね。私に言わせるとそういうことですよ。だからレフリーが反則をチェックするのはとても難しいことなんですよ。

上田vs.シン 1978年9月19日大阪府立体育会館

(I編集長) この猪木とカネックの試合もそうなんですね。ミスター空中のレフリングは間違っていなかったかも知れない。しかし闘っているレスラーにしたら、なんであの程度のことで反則負けになるんだという気持ちですよ。そうすると、後の試合が「ズルズルーッ」とダメな試合になってしまうんですよ。この試合は、その典型なんですよ。2万人も集めて180ペソもとって開催した割には、猪木vs.カネック戦が良い試合にならなかったわけですね。

ミスター空中のコメント

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■ 闘いのワンダーランド #065(1997.03.05放送)より
 1979.06.07 蔵前国技館
 藤波辰巳 vs. エル・カネック

(I編集長・井上義啓)今日は、1979年(昭和54年)6月7日蔵前で行われました藤波vs.カネックの話です。この試合の一週間前、5月30日ですね、大阪でもWWFジュニアヘビー級選手権試合として、チャンピオンの藤波にカネックが挑戦した試合がありました。この試合は両者リングアウト、観客の「延長コール」を受けて、5分間の延長戦が行われたんですが、時間切れで引き分けになったんです。実はこの試合で藤波は右足首の骨にヒビが入ってしまう大怪我を負ってしまったんですよ。それでもその後も、タッグマッチとかで騙しだまし試合出場をしていたんですね。ただタイトルマッチとなるとね、さすがにそれは出場させることは出来ないだろうというような状況だったんです。

(I編集長) だから6月7日、蔵前国技館でのこの試合を中止するのかどうかということで、猪木とか新間さん、そして大会関係者で相当モメていたんですよ。このとき藤波の方から申し出があってですね、「オレは痛み止めの注射を打ってでも、何とかリングに上がるから、負けてもいいから試合をさせてください」と言ってきたんです。
 そこで、猪木が決断したんですね。「負けてもいいじゃないか、藤波がそう言うんだから」と。負けた場合にはですね、タイトル防衛記録というのは19回でストップしてしまうんですね。だけども「タイトル防衛記録がなんだ、20回防衛した、30回防衛した、それがレスラーの勲章か?」と猪木がそう言ったらしいんですよ。これは他の団体のことを指したんでしょうけど、「他の団体では名を取るだろうけども、ウチの新日本プロレスというのは実を取るんだ。だからタイトル防衛記録なんてどうでもいいんだ。藤波がやる気があるんだったら、やらせろ」という猪木の一言で決まってしまったんですよ。そういった経緯があった試合なんですね。

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