[週刊ファイト12月28日-新春号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼“いぶし銀”木戸修さん死去 思い出グラフ・2試合プレイバック
photo & text by 西尾智幸
・追悼〝いぶし銀〟木戸修さんが12月11日死去
・カールゴッチに「My Son」と呼ばれた男
・超貴重86年ジャパンカップ争奪で師匠猪木と激突グラフ
・超レア08年大阪のどインディ団体に定期参戦
“いぶし銀”木戸修さん死去 思い出グラフ・2試合プレイバック
〝いぶし銀″で知られた木戸修さんが今月11日、死去した。まだ73歳だった。
木戸さんは、1969年2月に日プロでデビュー。その後1972年3月、新日本の旗揚げ戦に参加。
1984年からは第1次UWFに参加し、その優れたテクニックで徐々に人気が上昇。翌年には、格闘技ロード公式リーグ戦で優勝するなどの活躍。玄人好みのファイトスタイルを確立した。オリジナルのキドクラッチは、今なお他の選手にも使われている。
2001年11月に一旦引退するが、2005年に復帰。そして本当のラストマッチとなったのは、2010年2月22日、IGFで行った木戸&藤波辰爾vs.初代タイガーマスク&藤原喜明戦。
そして、2020年2月『プロレスリング・マスターズ』後楽園大会のリングに招待されたのが、最後の表舞台となった。
晩年は、癌で長く闘病生活を送っていたというが、その事を報道されていなかったため、今回の訃報でビックリされた方も多かったと思うが、ビックリと同時に本当に残念である。
木戸さんといえば! で筆者が思いつくワードは、「几帳面」「髪が乱れない」「NO流血戦」「My Son」「寡黙」「子煩悩」・・・だろうか?
特に「My Son」は、あのカール・ゴッチがアントニオ猪木でも藤原でもなく、木戸さんのテクニックを評し、息子と呼んだのは、何か深い物を感じた。
86年12月ジャパンカップ争奪リーグ&08年3月インディ・ど真ん中
過去に筆者が撮った写真を確認してみたが、新日時代の木戸さんはほぼ撮られていない。セミやメインでの試合が少なかったのもあるだろう。そんな中で、今回は新日の年末タッグリーグ(ジャパンカップ争奪)より、1986年12月の公式戦。そして2008年3月、大阪を拠点としていた泉州力率いるど真ん中プロレス!
正直、この団体を記憶されている方は、かなりのマニアだと思う。しかし、そんなマイナーな団体に参戦しているのだ。
そんな思い出のグラフを追悼としてアップしたい。
■ 新日本プロレス ジャパンカップ争奪リーグ公式戦
日時:1986年12月10日(水)
会場:大阪城ホール
観客:13,180人(主催者発表=超満員)
木戸修
○前田日明
17分33秒 リングアウト勝ち
藤原喜明
●アントニオ猪木