[ファイトクラブ]超短命ながら知名度バツグンな東京プロレス~消えたプロレス団体

[週刊ファイト9月14日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼超短命ながら知名度バツグンな東京プロレス~消えたプロレス団体
 by 安威川敏樹
・アントニオ猪木、ハワイで豊登に略奪される
・アントニオ猪木、ジャイアント馬場に挑戦
・東京プロレス崩壊の決定打となった『板橋焼き打ち事件』
・日本のプロレス史を変えた東京プロレスの3ヵ月間


「新団体の名称も“東京プロレス”と、すでに考えてあるッ!」
「東京プロレス!(ドドドドーン)」
(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信。漫画『プロレススーパースター列伝』より)

 かつて、東京プロレスというプロレス団体が存在した。名称だけ見るとローカルなインディー団体というイメージで、旗揚げから僅か3ヵ月で消滅し、実質的な活動期間は約2ヵ月。
 こんな超ド級の短命団体は、普通なら歴史に埋もれてしまい、誰も憶えていないものだが、東京プロレスの知名度は抜群だ。東京プロレスと銘打ちながら、実際には首都圏以外でも興行を打っていた全国規模の団体だが、それ以外でも東プロの知名度が高い理由がある。

 まず一つ目は、当時はプロレス界で一強状態だった力道山ゆかりの日本プロレスに反旗を翻し、東京プロレスとして独立した団体であること。
 もう一つは、若き日のアントニオ猪木をエースとした団体だったことが大きいだろう。

※注:1994年に石川敬士(現:孝志)らが旗揚げした東京プロレスとは無関係

▼We Remember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!

We Remember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!

アントニオ猪木、ハワイで豊登に略奪される

 1963年に力道山が亡くなり、豊登道春が日本プロレスの社長に就任した。しかし1966年1月、豊登は社長を辞任する。表向きの理由は持病の悪化だが、実際には豊登は大のバクチ好きで、会社のカネをギャンブルに注ぎ込んだために解任されたのだった。
 豊登はエースだったとはいえ、既に次期エースとしてスター性のあるジャイアント馬場が育っており、日プロの新社長に就任した芳の里淳三をはじめ幹部連中は馬場の売り出しにかかったのである。

 当時の日本のプロレス団体は、日プロが力道山時代に他団体を制圧したため、事実上の1団体状態。豊登がプロレスに関わるためには、新団体を興さなければならなかった。そして、持病持ちで手垢の付いた自分よりも、フレッシュな若手を売り出そうとしたのである。
 そこで、豊登が白羽の矢を立てたのがアメリカ修業中のアントニオ猪木だった。豊登は、猪木が5歳年上ながら同期の馬場に嫉妬心を抱いていたのを知っていたのだ。

 アメリカ遠征中の猪木に、日プロから連絡があった。帰国して、日プロの目玉シリーズだったワールド・リーグ戦に参加せよ、という指令である。
 猪木にとっては馬場に追い付けるチャンスだったが、ギャラは週給ということだった。当時の日本人レスラーは試合給だったが、週給だと外国人レスラー扱いだ。猪木はブラジル育ちとはいえ、なぜ俺が外国人扱いなのかと憤慨した。この時、日プロは猪木が豊登の新団体に参加するかも知れないと察知していたのだ。

 猪木がアメリカ本土からハワイに渡ると、馬場を含む日プロ連中と顔を合わせたが、どこかよそよそしい。もはや猪木と豊登が手を組むというのは既定路線と思われていた。
 猪木が力道山の付き人をしていた頃、力道山からイジメにも近いシゴキを受けて何度もプロレスを辞めると言っていた猪木に対し、親身になって引き留めていたのが豊登だったのだ。猪木と豊登の仲の良さは誰もが知っていたのである。

 猪木も、このまま日プロに帰っても実績的には遥かに上となっていた馬場の引き立て役になることは目に見えていた。自分よりもいち早くアメリカ遠征し、アメリカのメイン・エベンターになった馬場に比べて、猪木の初アメリカ遠征は力道山の死後で、アメリカではパッとしない戦績。猪木が馬場に対して後れを取っていると焦っていたのは事実だった。
 ハワイにやって来た豊登は、そんな猪木の心を見透かしており、東プロ入りを口説く。この時、既に猪木の心は決まっていた。

 猪木は豊登と帰国、東プロ入りを発表。これが『太平洋上猪木略奪事件』である。

アントニオ猪木、ジャイアント馬場に挑戦

 東京プロレスは、日本プロレスと同じく東京プロレス協会と東京プロレス興行の二本立てだった。日プロの日本プロレス協会と日本プロレス興行もそうだが、当時は単なる興行会社だけではなく、公益法人的な『協会』としての建前が必要だったのである。
 東プロは、日本プロレス・コミッションに加盟を申請した。アントニオ猪木がジャイアント馬場に挑戦するためには、同じコミッション傘下でなければ実現しないと思われていたのだ。

 東プロは、コミッションからの認可が下りるかどうか判らないまま、1966年10月12日に東京・蔵前国技館で旗揚げした。この頃、やはり日プロから独立して吉原功が興した国際プロレスもコミッション加盟申請をしたが、こちらも認められないまま翌年1月に旗揚げしている。
 本当のところで言えば、日本プロレス・コミッションとは名ばかりのもので、実際には日本プロレスしか加盟団体として認可していなかったのだ。プロ野球で言えば、日本野球機構(NPB)のコミッショナーが認めている球団は読売ジャイアンツのみといった状態である。

 結局、1973年に日本プロレスが崩壊すると、日本プロレス・コミッションも自然消滅した。日本のプロレス界を統括するコミッショナーではなく、実態は日プロのためだけの統括機関だったのだ。これほどいい加減なコミッショナーは、他のスポーツ界では存在しないだろう。
 1979年、3団体時代に新日本プロレスと国際プロレスが自由民主党の副総裁だった二階堂進をコミッショナーに推戴するが、残りの全日本プロレスは無視。二階堂コミッショナーも、いつの間にかウヤムヤにされた。それ以降、日本のプロレス界ではコミッション機関が設立されることなく、また1つの組織に興行会社と協会が存在するというややこしいプロレス団体は存在しない。

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